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新潟地方裁判所 昭和43年(ワ)564号 判決

原告 中野長助 ほか一七名

被告 国 ほか一名

訴訟代理人 渋川満 武田正彦 船津宏明 佐藤等 坂井光男

主文

一  被告等は連帯して

原告 石井平治に対し 金二五八万〇九四四円

同 今井幹雄に対し  金一四三万円

同 菅兵治に対し   金一一七万八〇〇〇円

及び右各金員に対する昭和四二年八月三〇日以降支払ずみに至るまで年五分の割合による各金員を支払え。

二  右原告等のその余の請求を棄却する。

三  右原告等を除くその余の原告等の請求を棄却する。

四  訴訟費用については、原告石井平治、同今井幹雄、同菅兵治と被告等の間においては右原告等に生じた費用はいずれも被告等の連帯負担とし、その余の原告等と被告等との間においては被告等に生じた費用の三分の二を右原告等の負担とし、その余は各自の負担とする。

五  この判決は、第一項に限り、同項記載の各原告においてそれぞれ次の担保を供したときは、仮に執行することができる。

原告 石井平治につき 金五〇万円

同 今井幹雄につき  金三〇万円

同 菅 兵治につき  金二五万円

事実

(請求の趣旨)〈省略〉

(請求の趣旨に対する答弁)〈省略〉

(請求原因および抗弁に対する認否)〈省略〉

(請求原因に対する認否および抗弁)〈省略〉

(原告等の立証および被告等提出の書証の成立に対する認否)〈省略〉

(被告等の立証および原告等提出の書証の成立に対する認否)〈省略〉

(河川管理瑕疵について)

以下第一ないし第三においては、本件における河川管理瑕疵の内容を明らかにするとともにこれが補強的主張をなし、第四においては、河川管理についての一般論を述べ、第五においては、被告らが瑕疵の不存在を理由づける前提として特に強調する異常降雨論、異常洪水論に対する反論をなし、第六においては、被告らが瑕疵の不存在ないしは破堤の経過等についての裏付け的証拠として援用する三木鑑定、吉川鑑定に対する証拠意見を述べる。

第一河川管理瑕疵その一

一  向中条地区築堤工事における瑕疵

(一) 堤防は浸透破堤を防ぐ強さを有しなければならない。しかるに、七・一七水害後築造した堤防が天端より水位一メートル下位であるにもかかわらず浸透破堤したのは右築堤工事に次のような瑕疵があつたからである。

(1) 盛土材料として浜砂を単一使用した点

元来、河川工学上築堤用土としては、(a)水で飽和した時のり面のすべりの起りにくいこと、(b)保水係数の小さいこと、(c)水に溶解する成分を含まないこと、(d)内部摩擦角(とくに水で飽和したときの)が大きいこと、(e)乾燥による亀裂の少ないこと、(f)草や木の根などの有機物を含まないこと、等の諸性質を有することが望ましく、従つて築堤材料としては砂と粘土性土が適当に混合されるべきもので、一般に、砂三分の一ないし三分の二、粘土性土三分の二ないし三分の一の比率が望ましいとされているのである。

砂は透水性が大きく浸透水の流速が大となるばかりでなく周囲からの拘束力を受けないと砂自体は強度をもたない。

そのため砂は乾燥または湿潤時には安定であつても、水の作用をうけると容易に安定を欠き流動化しやすい。

以上により盛土材料として砂だけを単一に使用すること自体極めて安定性への配慮を欠いたものというべきなのに、七・一七水害後築造した向中条地区堤防にはこの砂が単一に使用されているのであるから、右築堤工事には瑕疵があるといわねばならない。

(2) 盛土材料に適合した安全な断面形状と構造に設計施工しなかつた点

仮に盛土材料に砂を単一使用する特異の事情があつたとしても、本件築堤工事には砂の単一使用に適合した安全な断面形状と構造を有する堤防に設計施工しなかつた瑕疵がある。即ち

(イ) 裏法尻のフイルター(水抜き)の欠如

本件の如く〇・二八ミリメートル程度の粒径のよくそろつた砂を使用する場合は、定常状態で設計し、浸潤線が裏法を切る点以下を保護するのが常識でその方法としては通常フイルターを設置すべきであるのに本件ではそれが欠如している。

(ロ) 裏法勾配について

建設省土木研究所報告八八号「本邦直轄河川堤防の現況調査報告」にある堤防土質と堤高と裏法勾配の相関関係を示す図(図IV〈省略〉参照)によれば、砂質の堤高六メートルの場合は裏法勾配は一対三程度となる。

又学者の指摘によつても望ましい堤高と裏法勾配の関係は一対二・五から三、あるいは四のものが多い(吉川秀夫著「河川工学」一九四頁、山本三郎編「河川工学」二六四頁)。しかし本件では僅か一対一・五という急勾配に設計施行したもので極めて危険なものというべきである。

(ハ) 敷巾について

福岡正己氏が関東地方建設局管内の河川堤防について統計的に調査した結果に基づく堤防高とその敷巾の相関関係を示す図および相関式(図V〈省略〉参照)によれば、本件の如く高さ六メートルの堤防ではその敷巾(但し、裏法尻から表法肩の垂線に至る間の敷巾、以下同)は三〇から三六メートル必要となる。又在来堤防との透水係数の比較から、在来堤防と同じ程度の強度の堤体とするためには本件堤防の透水係数が一〇〇位程度大きいから、少くとも同倍率の敷巾即ち一五五〇メートルにしなければならない。しかるに本件敷巾は一五・五メートルであり、明らかに安全性を欠いている。

(ニ) 表法面について

表法面は主に流水による洗掘から堤体を保護するように作らねばならず、特殊的には減水時の安定も考慮せねばならない。しかし提体が砂でできている本件では、できる限り提体への浸透を妨げる止水材料、例えば八・二八水害後の復旧堤防に使用したコンクリート張りなどを使用すべきであるのにそれに意を用いられていない。

(ホ) 被覆土について

被覆土は天端及び法面への降雨が直ちに提体に浸透しないためと強雨にたたかれても流失しない安定を保つ機能と目的を有する。従つて、右目的に適わしい被覆土を用いるべきなのに本件築提工事に使用した被覆土は、前者の機能はある程度果し得ても、粘土粒と砂との混合状態をなす特殊な二次構造をもつている材料のため雨にたたかれると容易に流動化する性質を有し被覆土として適当なものでなかつた。

(二) 七・一七水害後築造堤防が浸透に対する強さを備えていなかつたことの裏付けとして次の事実を主張する。

即ち、八・二八水害の約五ケ月前である四月一〇日頃、加治川は上流山岳地帯の融雪水を集めて向中条地区はかなり水位が上昇し、七・一七水害後築造堤防の鋼矢板をやや越えることが数回あつた。この時の状況は一般的には破堤の危険を感ずるようなことはなかつたが、このような状況のときでさえも、堤防裏法尻には漏水がみられ、同部分がかなり軟弱化し、一部裏法が損傷するという事態が発生している。

二  西名柄地区築堤工事および築堤後の維持管理における瑕疵

水位が七・一七水害後築造した堤防の築造時の天端高よりはるかに下位にありながら、裏法の泥寧化と裏法尻の崩落、そして直接的には溢水により破堤したのは、七・一七水害後の西名柄地区築堤工事および築堤後の維持管理に次のような瑕疵があつたからである。

(一) 築堤工事における瑕疵

向中条地区におけると同一であるからすべて援用する。

(二) 築堤後の維持管理における瑕疵

県土木部は台風シーズンを控えながら昭和四二年八月一〇日ころ右堤防を上流在来堤との接合部分より下流に向つて一二〇メートルにわたり天端高より一・二メートルも削り取つて放置しておいた瑕疵がある。

三  溢水破堤と向中条、西名柄築堤工事および築堤後の維持管理における瑕疵

被告等は七・一七後築造した向中条地区堤防は溢水により破堤し、同西名柄地区堤防はきり下げ前と同高に復元した土のう積み天端を河水が溢水して破堤したと主張するが、仮にそうであるとしても、次の瑕疵を指摘できる。

(一) 水位が満水以上になつて溢水状態が生じても、堤防天端で畳立て、土のう積み等の水防活動を行うことにより溢水を最少限に防ぎ、破堤を免れた事例は多く(例えば八・二八水害当時坂井川〆切地区付近の堤防はかなりの部分が溢水したが、付近住民と消防団の水防活動により破堤を免れている)、堤防天端はかかる水防活動の場としての役割を与えられている。従つて、堤防天端はかかる水防活動を保証する強さをもつていなければならないこと勿論であるが、堤防全体としてもかかる水防活動を十分に保証するものでなければならない。

(1) しかるに、七・一七水害後築造した向中条地区堤防は前述のような築堤材料もしくは断面構造等の欠陥があつたため堤体の崩落や軟弱化を招き、この補修に水防活動の大部分をさくことを余儀なくさせるとともに天端への昇降を困難にし、堤防天端での溢水防止のための水防活動が殆んどできなかつた。堤防天端や提防全体が前述のように水防活動を十分保証するものであつたならば、本件の場合溢水破堤を防ぎ得たと思われる。

(2) 西名柄地区についても、堤防天端や堤防全体が水防活動を十分保証する強さをもつており、かつ、堤防の切り下げ問題がなかつたならば、水防活動により溢水破堤を防ぎ得たものである。

(二) 堤防は溢水を防ぐべき高さを有しなければならない。特に右両地区はカーブ地点の外延部であり、古来よりの破堤常習箇所である。外延部であれば、対岸に比し水位が若干盛り上がることは一般に認められているところである。従つて、このような箇所については、局部的にせよ堤防高をその近傍の堤防より例えば一メートル余り高くとることが溢水防止に有効であることは明らかである。ところで、向中条地区堤防は七・一七洪水で現実に溢水破堤し、被告等主張によれば西名柄地区も満水状態まで至つているというのである。従つて河川管理者としては、この七・一七洪水の教訓をしつかりとふまえ、七・一七洪水と同規模あるいはこれを上回る洪水があつたとしても、破堤しない堤高(およびこれに見合う断面構造)を備える堤防を築くべきであつた。河川法一六条三項が「河川管理者は工事実施基本計画を定めるにあたつては、降雨量、地形、地質、その他の事情により、しばしば洪水による災害が発生している区域につき、災害の発生を防止し、又は災害を軽減するために必要な措置を講ずるよう特に配慮しなければならない。」としてあるのはこの当然の事理を述べているものである。

しかるに、右教訓に学ぶことなく、被告等主張によれば、七・一七洪水をはるかに下回る水位の岡田測水所四・〇〇メートルの水位を基準として向中条西名柄両地区の工法を決定し、結局七・一七洪水時流失した旧堤防とほぼ同高の堤防を築いたにすぎないというのであるからこの点に瑕疵ありといわねばならない。

四  下高関地区改良復旧工事における瑕疵

(一) 同地区の七・一七水害後築堤した堤防が、水位天端より一メートル位下でありながら洗掘により破堤したのは同地区の改良復旧工事に次のような瑕疵があつたからである。

(イ) 堤防表法面について

同地区は湾曲外延部のため水勢の著しく強いところであり、それ故七・一七水害で洗掘破堤した。従つて右防止のためには表法面を可及的に水勢から保護する止水材料を使用すべきなのに、天端から一・二メートル下りまでの間の表法部分にはコンクリートブロツク張りがなされない設計と施工となつている。

(ロ) 堤防根固め工について

洗掘破堤は堤脚部が水勢で破壊され破堤する。従つて再度の破堤防止のためにはその前面に根固め工を行つて堤脚部の構造を安全にすべきなのに本件ではそれがなされていない。

(ハ) コンクリートブロツク張りの施工の一部の欠如

県土木部が七・一七洪水後作成した設計書によれば、右の如く、当然コンクリートブロツクが天端より一・二メートル下位以下に張られることになつていたのに、その一部(高新橋より二、三百メートル上流付近)につきこの張らるべきコンクリートブロツクが二〇メートルにわたり全く張られていなかつた事実がある。

(ニ) 堤防表小段天端のコンクリートブロツク等による被覆の欠如

本件堤防のように湾曲部外延部に設けられた堤防は高流速にさらされ、小段部分が洗掘され、高水護岸の崩落を招く危険性が高いので、小段天端には全面的にコンクリートブロツク等が張られるべきであつた。しかるに、同天端は、低水護岸上端部の洗掘防止のための一・五〇メートル巾のブロツク張りがなされただけで、全面的被覆の設計施行がなされなかつた。

(ホ) 左岸出州に対する処置について

本件地区は単に堤防構造の強化だけでなく、本件地区堤防への水勢加圧を減ずるために、その大きな要因の一つであつた左岸出州を掘削消去し、河水がより屈曲せず直下に流下しやすいよう河床工事をすべきなのにこれを行わず、却つて右出州中に低水路のコンクリートブロツクの護岸工事を施し、そのため前より以上に右岸本件堤防の安全性が危くなつた。

(ヘ) 「うし」の欠如

前述の水勢減圧の目的で本件堤防の上流付近に「うし」を設置し河水の中心部への流下と洗掘防止を図るべきであるのにその設置がなされていない。

(ト) 被告等は、七・一七水害後、下高関付近の加治川本川の計画高水流量を毎秒一、一四〇立方メートルとし、これに見合う計画高水位を定め、七・一七水害の破堤箇所に築造した新堤防には、この計画高水位までコンクリートブロツク張りの高水護岸を施し、その上部には一・二メートルの余裕高をとつたと主張するが、右計画高水流量から右計画高水位を割り出す作業に過誤があり、実際には右計画高水位以内に、すなわち、コンクリートブロツク張りを施している範囲内に右計画高水流量を収めきれない設計と施行になつている。

表1

場所

計画高水位

(a)

復旧堤防高

(b)

吉川鑑定河川水位

(c)

計画高水位と河川水位の差

(a)マイナス(c)

基点五四

二二・二〇

二三・四〇

二二・一五

プラス〇・〇五

基点五五

二二・八五

二四・〇五

二三・一四

マイナス〇・二九

単位メートル

(注)〈1〉 基点の位置は、〈証拠省略〉参照。

〈2〉 吉川鑑定水位は、吉川鑑定人の求めた、毎秒一、一〇〇立方メートルの流量を流した場合の計算水位(湾曲外延部であることによる水位上昇分は右の計算水位には含まれていない)。

右表によれば、基点五五では明らかに計画高水位が不足しており、基点五四についても、湾曲外延部による水位上昇分も計画高水位にとり込むとされているのであるから、基点五五と同様やはり計画高水位が不足しているものとみなければならない。

(二) 下高関地区につき、新堤防あるいは付近右岸在来堤防に表法肩までコンクリートブロツクを張り、あるいは新堤防上流付近に「うし」を設置する等、堤防を洗掘から防護すべき工事が必要であつたことはこの地区の昭和期の水害史をみることによつて一層明白となる。

即ち、高新橋より上流の右岸一帯は他の一般の堤防と同じく土堤であつたが、昭和七年の夏期に七・一七水害の破堤箇所よりやや上流の地点が洗掘により破堤し、さらに同九年にも、同様右地点が破堤した。そこで再度の破堤に鑑み、破堤箇所一帯の表法には石張りを行い、相当の水勢に耐え得るようにした。その後昭和一八年及び一九年夏期にも、かなり増水したことがあるが、破堤に至ることはなかつた。

そして、昭和四一年の七・一七水害においても、右石張りの下流端よりやや下流の地点が洗掘により破堤している。

従つて同地区は昭和期だけに限つても、八・二八洪水前の三回の破堤がすべて洗掘によるものであつて、洪水時における水勢の強さが如何に強烈なものであるか、そして、右のような強烈な水勢に土砂堤を直接さらすことがいかに危険をはらんでいるか、さらに、コンクリートブロツク等の強固な高水護岸を施すことがこの危険を無くするためにきわめて効果のあることをはつきりと示しているといつてよい。

(三) 下高関地区について、新堤防の表法肩までコンクリートブロツクを張るべきであつたことは次の点からもいえる。

吉川鑑定資料二ノ一「加治川流出解析報告書」三七頁によれば、七・一七洪水で氾濫を考慮しない前提で加治大橋において最大流量毎秒二、二一二立方メートル、姫田川合流前本川で最大流量毎秒一、三五七立方メートルが流れたと推算している。

県土木部ではおそらくこれをもとにしてであろうが、被告ら主張によれば、七・一七水害後の計画で加治大橋で基本高水流量を毎秒三、〇〇〇立方メートル、姫田川合流前本川で毎秒一、七四〇立方メートルとし、本川上流および本川上流で合流する内の倉川にそれぞれ治水ダムを設置し、ダムカツト分として毎秒六〇〇立方メートルを考えたというのである(従つて、下高関地区の場合は、計画によれば、河道計画高水流量は毎秒一、一四〇立方メートルとなる)。そして、被告ら主張によれば、下高関地区においては、右計画高水流量毎秒一、一四〇立方メートルを前提としてこれに見合う改修計画を立て、破堤箇所に新堤防を改良復旧し、付近在来堤防に一部改良を加え、引きつづいて河床の掘削等を行う予定であつたというのである。

そこで、以上のべた事実をもとにして考えてみると、右計画策定の経緯とその計画の内容から明らかなように、県土木部は二ケ所の治水ダムが完成しないうちは下高関付近において毎秒一、七四〇立方メートルの流量が生じうることを予期していたものであり、少なくとも同地区において既往最大である七・一七洪水時の毎秒一、三五七立方メートルの流量の生じうることは具体的予見の範囲内に入れていたのである。また、一方、県土木部は、下高関付近では河床掘削等と併せて毎秒一、一四〇立方メートルの流量に対処しるよう計画を立てたというのであるから河床掘削が完了しなければ、毎秒一、一四〇立方メートルの流量すら計画高水位内に流下せしめることができないことを当然予想していたものである。つまり、県土木部はダム設置や河床掘削等が完了しなければ計画高水位を相当大幅に上回る流量が下高関付近において生じうることを知つていたのである。従つて県土木部としては、できるだけ早期にダムの設置や河床掘削を完了するよう努めるべきことは勿論であるが、ダム建設といつても長期的なものであり、当時はその年次計画も明らかになつておらず、また河床掘削も下高関地区だけ行つても効果がなく、かえつて上流部堤防等に危険を生ぜしめるおそれがあるので、他箇所の河床掘削、堤防根固め等との関連の中でこれを実施せねばならず、当時においては下高関地区においていつ河床掘削を行うことになるのかその実施時期も明らかになつていなかつたのであるから、かかる事情のもとにおいては、災害防止のための過渡的対策が考慮されるべきであつた。すなわち、下高関地区は、過去に幾度も洗掘破堤した経験のある加治川全川の中でも有数の強い水衝部であるところ、七・一七水害後ダム設置や河床掘削等の完了するまでの相当長期間にわたり計画高水位を相当大幅に超える流量の生ずるおそれのあることを予見しつつ時を経なければならなかつたのであるから、当面の安全策として殊に水流の強くあたる部分である七・一七水害破堤箇所付近はそのような高水位の流量がきてもできるだけ安全なように計画高水位上の堤防余裕高部分にもコンクリートブロツク張りの高水護岸を施すべきであつたというべきである(なお、かりに新堤防にかかる設計と施工を追加しても経費的、時間的、人員的に無理を強いるものでなかつたことは明らかである)。

五  水防責任と河川管理瑕疵(下高関地区について)

県土木部では、下高関地区破堤箇所に上流部におけるダム建設等を前提にして、これが完了しないうちは過去の洪水量に耐えられない新堤防を作つたものであるが、河川改修計画(ダム建設を含む)がある年数を要することは当然にしてもそれまでの間は計画高水位以上の水位が予測されるところから、少なくとも、右の如き洪水に備えての水防資材の準備、地元消防団等に対する河川改修の進捗状況や下高関地区堤防の安全性についての説明等水防活動上必要な予備知識の教授、洪水時における水防資材の提供と水防工法の指導等のための職員派遣等がなされるべきであつた。しかるに、県土木部は水防資材の準備、予備知識の教授等も全くなさず、八・二八水害時おいても資材の提供はもとより水防工法指導等のための職員も誰一人派遣することはなかつた。右の点が河川管理の瑕疵となることは明らかであり、また、かかる瑕疵なかりせば洗掘破堤という事態も起らなかつたはずである。

六  連年水害の歴史と河川管理瑕疵の主張の補強

加治川治水沿革史によると、明治三六、三七、三八、三九年の連続破堤の外、明治一〇年、一一年、明治二九年、三〇年と連続水害が起きているのであり、この加治川の水害史からみれば、七・一七洪水のあつた昭和四一年の翌年たる昭和四二年にも同様洪水が発生することは当然予測可能の範囲内にあつたというべきであり、県土木部としては、連年洪水に対処できるよう河川管理を行うべきであつた。この点をも加味して、七・一七水害後の本件三地区における河川管理をみると前述した諸点が河川管理上の瑕疵となることがより明白に判る。

第二河川管理瑕疵その二

河川管理瑕疵その一においては、七・一七水害後の河川管理を問題としたのであるが、河川管理者はもともと災害発生の有無を問わず、日常普段に河川の安全性の確認とこれを確保するための河川工事、河川の維持修繕を行うべき責務を有しているのである。

この観点からみると、加治川管理に次の瑕疵が指摘できる。

一  被告等は、八・二八水害時向中条地区において溢水破堤し、また西名柄地区においては切り下げ前と同高に復元した土のう積み天端を溢水して破堤した旨主張している。仮に本件が右被告等主張のとおりであつても、原告等は次のとおり瑕疵の主張をすることができる。

被告等主張によれば、加治川については、昭和二七年、それ迄の姫田川合流点下流の加治川本川の計画高水流量毎秒一、四四〇立方メートルを変更して毎秒二、〇〇〇立方メートルと定め、姫田川合流前の加治川本川につき毎秒一、二〇〇立方メートル、姫田川で毎秒一、〇〇〇立方メートルと定めてそれに見合う全体改修計画を考えたというのである。そして、右改修計画にもとづき実際行つた工事は、被告等主張によれば、本川につき姫田川合流点から本川上流岡田までの間の河積の拡大、左岸山付堤の補強、右岸の引堤、姫田川につき、本川合流点から坂井川合流点までの間の河状整理、右岸堤防の補強、その上流部のショートカツト等を行つただけだというのであり、それに費した費用も昭和四一年迄に約三億六、八〇〇万円にすぎないというのである。ところで吉川鑑定によれば、向中条基準点ナムバー二五において河道は河水を満水状態で毎秒一、六二〇立方メートル程度しか流下させえないという。そうすると、昭和二七年以来一四年間も経たのに拘らず姫田川合流点以下の河川断面は、最大流下能力毎秒一、六二〇立方メートル以上には改修されていなかつたととが明白である。してみれば、昭和二七年に、毎秒二、〇〇〇立方メートルの計画流量を定め、且つそれは十分予見可能の範囲内の数値であつたのに、その改修計画を怠つたため、右計画高水流量をはるかに下回る毎秒一、六二〇立方メートル程度しか流下させえなかつたのであつて、これは結局堤防をこのように放置したという意味で瑕疵がある。そして、このような瑕疵があつたため、七・一七水害時、向中条地区は溢水破堤し、西名柄地区はその影響を受けて引水破堤し、さらにその後両地区破堤箇所に堤防を築造したものの、時間的その他の制約から流失した旧堤と同高程度のものを作らざるを得なくなり(従つて、流下能力も前と変りない)、その結果八・二八水害時においても向中条地区では再び溢水破堤し、西名柄地区では切り下げ前と同じ程度に復旧した土のう積み天端から溢水して破堤したのである。ところで、姫田川合流点下流本川七・一七洪水のピーク流量を流出計算で求めた場合、毎秒二、三〇〇立方メートル(中安式、吉川鑑定)あるいは毎秒二、二〇〇立方メートル(貯留関数法、新潟県)との値が算出されており、また八・二八洪水のピーク流量を流出計算で求めた場合、毎秒二、八〇〇立方メートル(貯留関数法、新潟県)との値が算出されている。しかし、右流量は過大に算出されている疑いがあり、岡田測水所において実測されたという水位をもとに算出した吉川鑑定付属資料二-四〈省略〉の表三-一、三-二にある次の数値の方がより正確である。右表によると、七・一七のピーク流量は毎秒一、九三四立方メートル、八・二八のピーク流量は毎秒二、三六〇立方メートルとされている。そして右表の数値を前提にして考えると、昭和二七年の計画が実施されておれば、七・一七洪水があつたとしてもその最高流量をほぼ計画高水位内におさめえたはずであるから、溢水破堤ということは起りえなかつたと推定され、また八・二八洪水についても、その最高流量は二七年計画を二割弱上廻つているだけであるところ、毎秒三〇〇立方メートルないし四〇〇立方メートルの流量は、加治大橋より下流部では水位にして四〇ないし五〇センチメートル上廻るにすぎず、毎秒二、〇〇〇立方メートルが安全に流下しうるような堤防では余裕高で十分カバーしうるような流量であるから、溢水破堤ということは起りえなかつたと思われる(二〇〇メートル以上の河幅を持つような河川では計画高水位上に一ないし二メートルの堤防余裕高をとるのが一般である)。

以上によれば、八・二八水害における向中条地区の溢水破堤、西名柄地区の復旧土のう積み天端からの溢水破堤は、昭和二七年計画の実施の懈怠という河川管理上の瑕疵によるものであり、この瑕疵がなかつたならば各溢水破堤ということは起りえなかつたことが明らかである。

二  本件三地区は被告ら提出の加治川治水沿革史(上)・(下)(〈証拠省略〉)によつても古来より破堤の常習箇所であり、危険箇所であつたのであるから、他の堤防箇所に優先して以前より堤防の安全性を確保すべく改修工事を行うべきであつた。これは河川法第一六条三項の明定するところでもある。然るに七・一七水害に至る迄本件三地区を特に危険箇所として改修工事を行つた事実はない。

そのため、本件三地区は、七・一七洪水で破堤し、八・二八洪水でも破堤したのである。

三  河川法第一六条第一項によれば、加治川の管理機関である新潟県知事は、加治川について工事実施基本計画の作成を義務付けられている。しかし、七・一七水害に至るまで右基本計画は作成されていなかつた瑕疵がある(なお、工事実施基本計画において定めるべき事項については、同法施行令一〇条二項参照)。而して右基本計画が作成されていれば七・一七洪水前においても堤防の改良が容易であつたし、七・一七破堤後の築堤工事においてもより安全なものが作り得た筈であり、八・二八洪水における本件三地区の破堤は右瑕疵が存したが故の破堤である。

第三  河川管理瑕疵その三

河川管理瑕疵その一、その二は個別加治川の管理を問題とするものであるが、河川に対する管理とは、特定の河川の管理に止まらず、広く、国の河川に関する法律、政令等の制定、行政の方針、予算の支出の方針等を含めた広義の管理作用として理解さるべきであり、個々の河川における災害の発生が右の広義の管理作用における瑕疵に由来するものであれば、その瑕疵の責任が問われるべきである。

一  河川法第一三条第二項は、「河川管理施設又は第二六条の許可をうけて設置される工作物のうち、ダム、堤防その他の主要なものの構造について河川管理上必要とされる技術的基準は政令で定める。」と規定する。しかしその政令は未だに未制定である。堤内地の住民の安全をまもるべくもつとも必要な堤防等の河川管理施設の安全度の技術的基準がかように放置されているのである。而して右が制定されていれば本件三地区の七・一七水害前の堤防改良も容易であつたし、破堤後の築堤工事についても右より安全なものを作り得た筈であり、八・二八洪水における本件三地区の破堤は右瑕疵が存したが故の破堤である。政令の未制定という点自体管理の瑕疵としなければならぬ。

二  負担法二条二項は、災害が起きた場合において原型復旧という方針を明定している。つまり、現在における河川管理は本件河川も含めて端的にいえば、災害のおきないうちは堤防管理はなされていず、一旦災害がおきてはじめて「管理」行為が行われるという実態にある。そうして「原型復旧」が行われるとその後は又管理行為は放棄されるのである。我国の治水工事は極端にいえば災害がおきない限りなされない。又、災害がおきても「原型復旧」に留るから従前より強い安全な堤防が作られることは不可能である。しかも、この「原型復旧」主義も行政庁内部の通達通知等により、例えば「仮締切工事」の高さは警戒水位程度でよいことにするなどゆるく運用されているのである。

かような国の河川管理に対する基本方針が災害の繰りかえしを招来するに至ることは明らかであり、本件三地区堤防の八・二八洪水による破堤も、右のような基本方針の招いた結果であつて、そもそも「原型復旧」という管理方針自体瑕疵あるものといわなければならない。

三  現在の国の災害復旧予算の方針は、災害復旧の予算を認定しても、これを三年に分け、初年度三、次年度五、三年度二の割合により分割支出するという年度割主義を採用している。これではたとえ「原型復旧」でも三年間は出水の毎に住民は一路避難をすることを行政指針とするようなものである。この管理方針自体も瑕疵あるものというべきであり、特に向中条、西名柄両地区の築堤に浜砂を他に配慮なしに単一使用した真因はここにつながるものと考えられる。

第四河川管理について(一般論)

一  「溢水なき破堤」と瑕疵の推定等

破堤原因は、溢水、浸透、洗掘、その他に大別されるといいうる。ところで、堤防は溢水なき限り原則として洪水に対処しうる安全性を有していなければならないのは当然である。従つて浸透、洗掘による破堤=「溢水なき破堤」の場合は、断面構造堤防材質等に関し設計施行上等における瑕疵の有する度合がきわめて強いといわなければならない。この意味で「溢水なき破堤」は瑕疵を一応推定させるものと考えるのが相当である。

次に、溢水による破堤の場合であるが、溢水によつて破堤したとしても直ちに免責されるものでない。なぜなら、溢水破堤の場合は、堤防の高さ等に関し設計施行等における瑕疵の存することがありうるからである。

二  「計画高水位」等の意義について

被告らは、計画高水位以下の水位で破堤した場合に原則として瑕疵あることを認めているが、水位が計画高水位を上回われば、原則的に免責されると主張している。

然しながら、被告らの右主張は計画高水位並びに堤防に対する河川工学と法律上の意味を勝手にとり違えたことの大なる謬見といわざるを得ない。

即ち、第一に河川工学において「計画高水位」とは流量計算から導き出されるもので堤防構造の要素の一つである堤防高を求める際の抽象的幾何学的概念に過ぎぬ。もつと進んでいえばそれは堤防構造を決める際の高さの参考的数字に過ぎない。

ところが、具体的な堤防は、そのような抽象的高さ、あるいは敷巾、天端巾、法勾配あるいは堤防材料を決定した上で作られるもので築堤された具象物である。そうして、河川工学約にも法的にも堤防とは天端から堤体の最下位までの全体をいうのであつて、計画高水位以下の物体を堤防と呼称するのではない。

第二に、なるほど抽象的には河川工学上「計画高水位」「余裕高」「余盛」などの概念がある。しかし学者の説く一般は「余裕高」は流量計算の正確性を補充するための安全率としての必要的高さであり、「余盛」は又、目減り等に備えたところの築堤技術であつた。そうして抽象的に堤防高について右のような概念区別はつけられても一たん堤防が作られれば、どの高さまで計画対象水位でありどこまで余裕高である等の具体的な区別はなく一切を入れた六メートルなら六メートルの堤防高を基準に法勾配や被覆土、コツクリート張り、水抜き等の構造が施されるのである。

それ故に、仮に計画高水位が五メートルであるから、その部分のみコンクリートを被覆し、あとは余裕高、あるいは余盛りであるから材質を選ばない単なる泥土でよいとする議論は河川工学界においては寡聞にしてきかないのである。

第三に、中小河川はもちろん、一、二級河川においても未改修のままの堤防では、そもそも計画高水位そのものがない場合が多い。したがつて、計画高水位を河川堤防一般に通ずる免責と瑕疵推定論の一基準に採用しようというのは無理があると思われる。

第四に、前にも述べたとおり、実際の堤防は堤脚から天端までが堤防であつて、もとより計画高水位が堤防ごとに線引きされている訳ではない。このように一般住民にとつて実際堤防に関し認識できない概念で免責と瑕疵推定論の基準にするのも、もとより法的安定を害するものともいえる。

このように考えてくると、第五に、瑕疵推定論の基準は、やはり溢水なき破堤か否かで考えるのが至当である。特に、河川工学や土質工学の高度の専門知識は国が独占し、土木学界が建設省ときわめて密接不離の関係にあるのであるから、衡平の見地からいつても住民側の立証責任の軽減が図られるべきである。計画高水位を上廻る破堤なら、あとは住民が全部瑕疵を立証せよというのは不可能を強いるものとなるからである。

三  「仮堤防」について

負担法施行令には「仮締切工事」という概念があり、七・一七水害後まもなく向中条西名柄地区に築造した堤防は被告ら主張によれば、右「仮締切工事」として施行されたものであるというのであるが、右も河川法上の堤防に含まれることは明らかであるから、築堤材料構造の安全性についての義務も本堤防との間に差異はなく、唯、「仮堤防」は右施行令上その工事の規模(例えば堤防高等)において劣位的であるに過ぎない(なお、このようにいうことは、向中条、西名柄地区に実際に築造された「仮堤防」の高さに問題がなかつたと是認するものではないこと勿論である)。従つて、「仮堤防」も溢水なき洪水に対しては原則として安全でなければならないものであり、「仮堤防」だからといつて、例えば劣弱な築堤材料を用いてもいいということにはならないのである。

第五被告らの異常降雨論、異常洪水論に対する反論

一  被告らは、七・一七降雨につき、その日雨量の超過確率を算出し、これを根拠にして、七・一七降雨が過去の経験から殆んど予期することができなかつた旨主張するが、七・一七降雨時の最大時間雨量三六ミリ程度の雨量は、一寸した降雨で全国的に多数みられる現象であることからみれば、到底七・一七降雨が予期できない異常な降雨であつたということはできない。また統計的確率論は、観測年数が四五年程度の資料の乏しい場合には、その答を求めてもどの程度信頼のおけるものか疑問であり、学問的にもあまり意味をなさないものである。

二  被告らは八・二八降雨は、異常な七・一七降雨をさらに大巾に上回つた旨主張するが、いま被告らの主張する七・一七降雨と八・二八降雨の降水量を比較してみると、次表のようになる。

七・一七降雨

八・二八降雨

三日連続雨量

最大二四時間雨量

四日連続雨量

最大二四時間雨量

二王子岳

五四三

三四〇

四二四

三三九

田貝岳

六三九

三九五

四三七

三五八

赤谷

四八六

二八五

四〇九

三五三

単位ミリメートル

即ち、これでみると、連続雨量では七・一七降雨の方が八・二八降雨よりもむしろはるかに大なのであり、最大二四時間雨量をとつてみても八・二八の方が七・一七に比べて特に大ということはできず殆んど大差ない(田貝山では七・一七の方がうわまわり、赤谷では八・二八の方がうわまわる)。

つまり、八・二八降雨が七・一七降雨をさらに大巾に上回わる異常降雨とは到底いえず、むしろ前年と同規模の降雨の単なる繰り返しにすぎない。

三  被告らは、七・一七降雨、八・二八降雨はいずれも予測外の異常降雨であり、それにより生じた七・一七洪水、八・二八洪水も予測外の異常出水であつた旨主張する。

しかし、両洪水は、たしかにその水位等の記録において過去の記録をかなり上回つたものであるかも知れないが、決して予測外の規模の出水でなく、県土木部において過去にすでに予測していた範囲内の出水である。

すなわち、県土木部では昭和二七年姫田川合流点以下加治大橋における計画高水流量を毎秒二、〇〇〇立方メートルと定めて改修計画を策定した。つまり県土木部は右の時点においてすでに右程度の規模までの出水の生じうることは予測していたのである。ところが、七・一七洪水において実際に生じた最大流量は河川管理瑕疵その二・一において述べたとおり毎秒一、九三四立方メートル程度であつたと考えられるから、七・一七洪水は昭和二七年予測した規模と同一程度かややそれを下回る程度の出水であつたにすぎない。

また、県土木部では、七・一七水害後基本高水流量を姫田川合流点以下加治大橋で毎秒三、〇〇〇立方メートルと定めて改修計画を策定した。つまり県土木部は七・一七洪水の経験により、最大流量毎秒三、〇〇〇立方メートル程度の規模の出水まで予測したものである。

ところが、八二八洪水で生じた実際の最大流量は河川管理瑕疵その二・一で述べたとおり毎秒二、三六〇立方メートル程度であつたと推定されるから、八・二八洪水は県士木部で予測していた規模をはるかに上回る出水であつたということができる。

第六三木鑑定、吉川鑑定に対する批判

三木鑑定人は、向中条地区「仮堤防」の大型模型堤防を作り、浸透実験を繰り返して同「仮堤防」用土の築堤材料としての適性について鑑定し、同「仮堤防」用土として用いた砂丘砂は築堤材料として利用できないものではない、「仮堤防」の破堤は、堤外側からの浸潤線が堤内側法先に達して起つたものでなく、堤頂を水が越流して急速に生じたものである等の鑑定結果を提出しているが、同鑑定人の鑑定は右模型堤防の土質条件が仮堤防の土質条件と異なつているなど、多くの重要な点で災害時の条件とは異なる実験条件の下で行なわれているのであり、従つて、その鑑定結果を信用することはできない。

また、吉川鑑定人は、八・二八洪水の際の向中条地区破堤時前後の水位について鑑定し(鑑定事項(二))、同地区の一時間単位、一〇センチメートル単位の水位を算出して同地区の溢水を推定しているが、右鑑定は不十分、不正確な資料をもとに様々な仮定と推論を積み重ねて右結論に至つているものであつて到底措信するに足りないものである(同鑑定の基礎資料として用いられている地点雨量は九〇平方キロメートルに一ケ所というような少ない観測点の降水量記録である。同じく基礎資料として用いられている七・一七洪水、八・二八洪水の岡田測水所水位記録は正確性に疑問のあるものである。また同鑑定人が流出計算で用いている諸定数はすべて推定にもとづいているものである。のみならず右のような定数を含む流出計算式自体その精度に問題がある。さらに同鑑定においては、坂井川麓、〆切両地区右岸からの溢水が考慮されていず、また本川姫田川合流点付近三角地の広範囲にわたる湛水による遊水効果が無視されている)。

(河川管理瑕疵の不存在について)〈省略〉

理由

第一原告らの居住地等

原告山田薫を除く原告ら及び原告山田薫の亡父訴外山田要治が後記加治川の貫流する新潟県新発田市、同県北蒲原郡及び同県豊栄市に居住する(していた)農民であることは当事者間に争いがない。

第二加治川について

一  加治川と被告らの関係

加治川は北蒲原一帯の穀倉地帯を潤す治水上利水上極めて重要な河川であること、加治川は現行河川法上二級河川の指定を受けていること、また旧河川法時代はいわゆる準用河川の認定を受けていたこと、加治川の管理の主体は被告国であること、新潟県知事が旧河川法時代よりなしてきたまた現行河川法下でなしている加治川管理は被告国の機関委任事務としての性格を有すること、被告新潟県は現行河川法五九条等の規定により加治川について所定の管理費用を負担していることは当事者間に争いがない。

二  流域の概況及び下流平野部の地形的特性等

〈証拠省略〉及び弁論の全趣旨によれば、(河川管理瑕疵の不存在について)第一・一、二、三記載のとおりの事実及び流域、下流平野部の平面図が図一-一〈省略〉、図一-二〈省略〉記載のとおりであること並びに理由中でとりあげる加治川周辺ないし近傍の地区、河川、測水所、ダム、橋等のうち主なものの所在場所及びこれらの位置関係が図一-一〈省略〉、図二-一六記載のとおりであることを認めることができる。

第三加治川における治水の経緯

一  加治川分水路完成前の治水の経緯について

〈証拠省略〉及び弁論の全趣旨によれば、(河川管理瑕疵の不存在について)第二・一記載のとおりの事実が認められる。

二  加治川分水路工事及び同分水路完成以降昭和二七年前の治水の経緯について

〈証拠省略〉、及び弁論の全趣旨によれば次の事実を認めることができる。

(一)  近年の加治川改修工事は明治四〇年から下流の砂丘地帯をショートカツトする分水路工事が施行され、大正六年にはこれを完成したが、引き続き上流姫田川合流点までの区間の改修工事を施行し大正一四年頃一応これを完成した。さらに昭和一一年まで残工事及び維持工事が年々行われた。しかして、昭和四一年の七・一七水害に至るまでの約五〇年間位は姫田川より下流部においては記憶に残るような水害は発生しておらず加治川治水史上では最も安定した時代となつており、この改修工事は大きな成果をあげた。この分水路工事及びその後の姫田川合流点以下の改修工事の概要を分説すれば次のとおりである。

(二)  分水路工事

加治川は真野より上流はほぼ直線で急勾配であるのに真野で大きく屈曲して砂丘ではさまれた緩匂配の低湿地を流れているため真野付近より下流部は疎通が不良で流水が停滞し堆積も生じて次第に危険度を増し、明治の後半は溢水破堤が殊に真野付近より下流部に集中した。

これに対する治水の抜本的対策としては、加治川の流末をなるべく短距雌で日本海に落すしかなかつた。この計画は古くからあつたが、実現に至らず、明治時代に入つてからも大いに議論されたが、費用の調達難、利水との関係調整の困難さから工事着手をみなかつた。

明治二九年、三〇年、三一年と続いて起きた水害を契機として同三八年には河川法を準用し、県知事が国の機関委任事務として分水路を設けることとなつた。明治四〇年加治川を真野新田から次第浜に抜く約四・九キロメートルの分水路工事に着工し大正三年に一応完成しなお引続き大正四年から三年間残工事の仕上げを行い大正六年に分水路工事は完成した。この分水路工事の完成によつて、下流部は洪水時における溢水破提の危険を免れることとなつた。

江戸時代以来多くの加治川の流路を変更する大工事が行われてきたが、それらはいずれも新田開発に重点がおかれたものであり、全く治水のみを目的とした加治川分水路工事は加治川治水史上画期的なものであつた。なお、その後分水路より下流部は漸次河積も縮少されて派川となり、この分水路の方が本川となつた。

(三)  分水路完成後の改修工事

分水路工事の完成により、下流部の災害防除は完全なものになつたが、分水路より上流加治川村までの河床は堤内耕地より高く、また川巾の広い所は三六〇メートルを越えるが、一方狭い所では僅か九〇メートル程度しかないため、洪水時には水位が高く、堤防の危険度は大きかつた。このため大正九年から新潟県知事においては紫雲寺村真野原新田地内の加治川洗堰(この洗堰は、床止めに類したもので、分水路の完成による流速の増大が河床の低下をもたらすことを防ぎ、従前通り分水路上流部及び下流部において農業用水の取水が可能なように、すなわち、従前の利水機能の維持を目的として分水路工事の一環として設置されたものである)より上流加治川村地内姫田川合流点に至る延長約六・〇キロメートルの改修工事に着手した。改修工事は極力在来堤防を利用して川巾の狭い箇所は上下流の広い部分の川巾に揃えて拡巾し堤防の低い箇所は盛土して隣接の高い堤防に揃え、また弱体堤防を補強するなど河積の拡大並びに堤防の強化を計るとともに屈曲部の堤防法線を是正して洪水の疎通を計つた。一方堆積上昇している河床を掘削し、低水護岸、水利等を施して低水路の整正と維持を計つた。

この工事は大正一四年頃一応完成し、以来昭和一一年まで年々残工事及び維持工事が行われている。

三  昭和二七年以降七・一七水害前の治水の経緯について

〈証拠省略〉及び弁論の全趣旨によれば、次の事実を認めることができる。

(一)  中小河川改修事業の着手に至る経緯

前記二で述べた改修工事以降加治川本川の姫田川合流点下流は既改修区域となつたが、これによる北蒲原平野全般にわたる治水効果はきわめて大きいものがあつた。しかし、姫田川合流点より上流の加治川本川及び支川姫田川、小支川坂井川は右の改修工事から取残され、小さな氾濫を繰り返していた。さらに、加治川本川の姫田川合流点下流、洗堰間は、計画高水流量毎秒一、四四〇立方メートルの既改修区間であるけれども、その後の降水状況、中州の発達による河床上昇等から河積の拡大と堤防補強をする必要があつた。

このような状況のもとに、戦時下の空白期間を経て戦後にいたり、これらを改修して洪水防禦をせんとする気運が高まり、特に上流部の地元より河川改修の要望が大いにあつて、新潟県知事においては昭和二七年から中小河川改修事業で加治川の改修工事を行うこととした。

(二)  中小河川改修事業の改修全体計画

改修計画は、計画雨量を赤谷観測所の記録(自大正九年至昭和二六年)による最大日雨量一七二・一ミリメートル(昭和七年七月七日)よりも更に余裕をみて、日雨量二〇〇ミリメートルと定めたが、これは当時の確率で一〇〇分の一(一〇〇年に一回)に相当するものである。計画高水流量は計画日雨量二〇〇ミリメートルをもとに、本川については姫田川合流点より下流で毎秒二、〇〇〇立方メートル、上流で毎秒一、二〇〇立方メートル、姫田川については坂井川合流点下流で毎秒一、〇〇〇立方メートル、上流で毎秒四七〇立方メートル、坂井川については三光川合流点で毎秒七〇〇立方メートル、上流で毎秒六〇〇立方メートルと決定し、これによつて加治川全般にわたる改修全体計画を策定した。右改修対象区間は、図一-九〈省略〉記載のとおりであつて、本川については派川分流点より新発田市大字江口地区までの一三・七キロメートル、姫田川については、本川合流点より田貝川、坂山川合流点までの四・六キロメートル、坂井川については姫田川合流点より石川川合流点までの三・九キロメートルである。

(三)  中小河川改修工事の実施

改修工事は、まず従来の加治川改修から取残され、小氾濫を繰り返していた上流地区の河川の安全度を下流部程度まで向上させることから行うこととし、姫田川合流点より上流岡田間の河積を拡大し、左岸の山付堤より下流を補強し、右岸は引堤を行つた。姫田川は、坂井川合流点より上流は自然蛇行河川の無堤防であつたので、蛇行部のシヨートカツトを実施した。

この改修工事に要した事業費(自昭和二七年至昭和四一年)は約三億六、八〇〇万円である。

加治川本川姫田川合流点下流については、洗堰までが前記改修計画の対象であり、その改修の主眼は、河床を掘り上げ、洗堰を切り下げて天井川の解消を図り、また西名柄向中条付近の蛇行部を整正することにあつたが、昭和四一年の七・一七水害までこのような抜本的改修の着手までには至らなかつた。ただ、中州の発達している箇所について、その掘削や堤防の補強がなされていた。

なお本川(=分水路)河口部は局部改良事業で河口閉塞防止のための導流堤と護岸を施行していた。

第四七・一七洪水について

一  新潟県下越地方は日本海西部に発生した低気圧によつて梅雨前線の活動が活発となり、昭和四一年七月一七日早朝から雨が強まつたこと、加治川においては右降雨による出水のため、向中条、西名柄、上高関の三地区堤防をはじめ合計九箇所にわたり堤防が破堤したこと及びそのため後背地に甚大な被害の生じたことは当事者間に争いがない。

ところで、右のごとく多くの破堤と後背地への甚大な被害を招いた加治川の洪水の状況及び右洪水をもたらした当時の気象状況さらに向中条、酉名柄、下高関の破堤状況は以下に述べるとおりである。

二  気象状況

写真、図面、統計数字部分については成立に争いがなく、その余の部分については〈証拠省略〉及び弁論の全趣旨によれば次の事実を認めることができる。

(一)  気象の特徴

昭和四一年七月一六日から一八日にかけて新潟県北部(下越及び中越北部)、山形県及び秋田県にわたり梅雨前線による豪雨が発生した。七・一七豪雨といわれるこの豪雨の特徴をあげれば次のとおりである。

(1) 七・一七豪雨は梅雨末期の集中豪雨としては典型的タイプのものであるが、規模も大きく記録的なものであつた。

(2) 豪雨が激しく集中した地域は新潟県北部で特に加治川の流域が最も激しかつた。

(3) この豪雨は一六日朝、一六日午後から夜、一七日朝から午後、一七日夜から一八日朝の四つのピークに及んでおり、第三のピークが最大の強雨をもたらした。

(4) 降水量としては新記録又はそれに近い値を観測した所が多かつた。

(二)  気象の経過

七・一七豪雨は梅雨末期の集中豪雨としては典型的タイプであり、梅雨前線の上を低気圧が通過したため、前線の動きが活発となつて豪雨が集中したものである。すなわち、一五日一五時頃中心から南西にのびる寒冷前線を伴つた低気圧が日本海中部にあつたが、これがかなり早い速度で東北東に移動し、一六日三時には東北地方南部から新潟県北部を結ぶ線まで南下していた前線に影響したため一六日未明には第一波の強雨があり、さらに一六日昼過ぎから夜半前にかけて第二波の強雨があり、この結果加治川流域内の赤谷では最大時間雨量二〇ミリに達し、九時間で一〇〇ミリを越えた。一七日三時に佐渡沖に発生した弱い低気圧の通過により一七日未明より再び下越地方で雨が強くなつた。新潟県北部ではこの小低気圧が通過した七時頃を中心に最大の強雨となり、赤谷で最大時間雨量三六ミリ、三時間では八二ミリ、六時間では一二〇ミリに達した。一方、日本海西部の低気圧はさらに東北東に進み、一七日一八時には日本海東部に達したため、一旦南に下つた前線は再び北上して下越で活発となり、一八日早朝にかけて第四波の強雨をもたらした。

(三)  降雨状況

七月一六日未明から一八日昼まで約六〇時間にわたつて続いた大雨は北は山形県庄内地方の一部から南は新潟県魚沼地方の北部に及び、この間四回の強雨群を数えて中心部の総雨量は六〇〇ミリに達する大規模のものであつた。特に雨量の多かつた地域は山形県槙代から新潟県赤谷までの山間部で総雨量四〇〇ミリを超え、地点最大として加治川上流の田貝山で六六八ミリ(四日連続雨量)を観測した。最も雨の強かつたのは一七日昼間の第三強雨群で、これを含む任意二四時間雨量は田貝山で三九五ミリ(自一七日三時至一八日三時)に達し、新潟県内既往最大値三九五ミリと同記録となつた。

観測所の日雨量としても、田貝山、二王子岳、赤谷(いずれも加治川流域)では、一六、一七の両日ともこれまでの記録を大巾に更新してそれぞれ第一位、第二位を占めた外、金丸、新発田(加治川流域)でも第一位、三面、下関、早出で第二位の記録を作つた。

(四)  降水量

七・一七豪雨時の各観測所における各種降水量及び既往の記録については、表二-一、二-二、二-五、図二-六〈省略〉のとおりである。また新発田(気象台所属)については過去七四年間、また赤谷については過去四五年間の年最大日雨量から七・一七豪雨の日雨量を統計的に超過する日雨量が発生する確率を試算すれば表二-四のとおりとなる(なお、右表における例えば超過確率一六七分の一とは一六七年に一回の確率の意である)。

三  七・一七洪水の状況

(一)  水位について

(1) 〈証拠省略〉によれば、次の事実が認められる。

(イ) 七月一六日午後の第二の強雨群で加治川は増水を始め、一旦警戒水位を若干超えた程度で第一波のピークは減水に向つたが、一七日未明の激しい第三の強雨群により一七日朝から急激に増水してゆき、七・一七洪水の最高水位に達した。

本川姫田川合流点よりやや上流にある新発田市大字岡田地区内加治川岡田測水所における水位の変動状況はほぼ図二-七〈省略〉のとおりである。

(ロ) 流域内の降水量の変化と加治川(岡田測水所付近)の水位の変化を対照すると次のとおりである。

七月一六日午後の第二波の強雨群で加治川は一六時頃から増水を始め一旦警戒水位を一メートル内外超えた程度で夜半頃から減水に向つたが、一七日三時頃から再び降り始めた第三の強雨群は七時から九時頃を中心に加治川流域に一時間三〇乃至四〇ミリ、三時間で六〇乃至八〇ミリに達したため加治川は一七日七時頃から急激に増水し、岡田測水所の最高水位は一一時で四・四五メートルに達した。二度にわたる水位のピークは第二、第三の強雨群の中心時刻から四時間前後遅れて現われているが、これは出水の遅れが四時間前後であることを示しており、降水量の変化に四時間前後のずれで対応しつつ水位は変動している。

(ハ) 岡田測水所は昭和三四年六月より観測を開始したものであるが(但し自記観測開始は昭和三五年二月)、観測開始以来の洪水記録は表二-六に示すとおりであり、七・一七洪水時の最高水位四・四五メートルは過去八年間の記録を大巾に上回つた。また讐戒水位(二・六〇メートル)以上の洪水位継続時間は二七時間もあり過去の記録からみて格段に長かつた。

(2) 岡田測水所の七・一七洪水時における自記水位記録(〈証拠省略〉)の正確性について

図二-七〈省略〉岡田測水所水位変化図のもとをなしているのは同測水所水位計の自記紙に記された水位記録であるが、右自記紙をみると水位の変動が自然でなく階段上に上昇したり下降している箇所があり、水位計に故障が生じていたことが明らかである。吉川鑑定はその原因につき「洪水水位上昇期に量水標導水管に土砂が堆積したもの」と推定している。従つて自記紙上の水位記録は必ずしも正確に水位の変動を写しとつているとはいえず、たとえば、第二波のピーク水位は記録上よりはさらに上回つていたのではないか、右ピーク後の水位は記録上のようなフラツトな状態が継続したことはなかつたのではないか等の疑いが一応生ずる。しかし、八・二八洪水時における岡田測水所の第二波のピーク水位(八・二八洪水の最高水位)の記録は〈証拠省略〉によれば五・三〇メートルとされているところ、〈証拠省略〉中には、「八・二八洪水の際は岡田でも溢水し、そこで堤防天端上に付近の赤土をダンプカーで運んで積み上げ溢水を食い止めたことがあるが、七・一七洪水の際は第二波のピーク水位時でもまだ天端より大分余裕があつた。」旨の供述部分のあること、〈証拠省略〉の八・二八洪水時の岡田測水所における水位記録の波形は〈証拠省略〉中にある本川上流部の新発田市大字滝谷地内の東北電力加治川ダムの流量(流入量)記録の波形とかなりよく対応しているところ(但し、右ダムは本川のかなり上流部にあるので当然のことながら波形の振幅の程度は激しい)、七・一七洪水時の岡田測水所における自記水位記録の波形も〈証拠省略〉中にある本川上流部の新発田市山内地内の東北電力飯豊川第一ダム(但し、前記加治川ダムより一〇キロメートル位下流にある。図一-一〈省略〉参照)の流量(流入量)記録の波形とかなりの対応関係を有していること、〈証拠省略〉によれば、八・二八洪水時の最大流量(流入量)は毎秒七四三立方メートルと記録されているところ、〈証拠省略〉によれば七・一七洪水時の最大流量(流入量)は毎秒四六五立方メートルと記録されていて右をかなり下回つていることに照らすと、七・一七洪水時の岡田測水所の自記水位記録は水位計の故障のため若干の誤差は含むものの決して大巾のものでなく、おおむね実態に合致していると認めてよいと思われる。

(二)  流量について

(1) 〈証拠省略〉(加治川流出解析報告書、作成年月日昭和四四年九月)によれば、七・一七洪水、八・二八洪水の流出解析を新潟県土木部より依頼された株式会社建設技術研究所は、流出計算式として貯留関数法を採用して、氾濫がなかつたとした場合の七・一七洪水の最大流量を次のとおり算出している(但し、飽和雨量一〇〇ミリメートルと仮定)。

(イ) 加治大橋(姫田川合流点やや下流)毎秒二、二一二立方メートル

(ロ) 姫田川合流前本川毎秒一、三五七立方メートル

また、吉川鑑定(付属資料二-五〈省略〉)によれば、同鑑定人は同鑑定において、貯留関数法による七・一七洪水、八・二八洪水の流出計算として右流出解析報告書のそれを引用する外、中安法とよばれる流出計算式によつても両洪水の流出計算を行つているが、後者によつて算出した七・一七洪水の最大流量値(氾濫不考慮)は次のとおりである。

加治大橋 毎秒二、三三九・五立方メートル

(2) 間題は流出解析により算出されたこれら推定値の精度である。

(イ) 流出解析とは流域雨量から流出量を推定することをいうが、前記推定値の精度を考える場合間題となる点はきわめて多い。その主なものをあげても次のとおりである。

(i) 流出計算を行う前提としてまず流域雨量を確定しなければならないが、流域内の全地点における雨量を実測することは不可能であり、加治川においてもかかる実測値は存しないこと

(ii) 従つて、流域内もしくはその周辺にある観測点の雨量から流域雨量を推定する外ないが(そのための計算式はテイーセン法等いくつかとなえられている)、かかる手法によつて求められるのは流域平均雨量であつて、流域内の全地点における雨量はあくまで不明であること

(iii) のみならず、右算出された流域平均雨量が真実の流域平均雨量と厳密に合致しているのか否かも不明であること、もつとも、適当に設定地点の選ばれた充分な数の観測点雨量が存すれば、これにより求められた流域平均雨量は実相にきわめて近似しているということもできようが、株式会社建設技術研究所が行ない、かつ吉川鑑定人も同鑑定において採用しているテイーセン法を使用しての流域平均雨量の推定は約一〇〇平方キロメートルに一箇所程度の観測点計六箇所の雨量を資料としていること)

(iv) 実際の降雨が河水に転換し河道を流下しある地点に到達する過程はきわめて複雑であつて、これを支配する条件はおよそ無限にあるといわなければならないが、流域雨量から流出量を算出する流出計算式(貯留関数法、安中法の外、多くのものが諸家によつて開発されている)はこのような複雑きわまる流出機構を単純化し数式化した一種の想定モデルにすぎないこと

(v) これまで開発されている流出計算式はいずれも定数を含むが、これらの定数は全河川に普遍的なものでなく各河川固有のものである。従つて、ある河川にある流出計算式を適用するについては、これに先立ちまずその計算式の定数を当該河川につき決定しなければならないが、これが正確を期するためには過去に適当な地点における精度の良いかつ大、中、小いずれの洪水にも亘つている流量観測の実績のあることが必要である。しかるに加治川においては、かつて下流部において流量観測が実施されたことはなかつたこと

以上のとおり、前記流出解析により求められた推定流量値については、雨量推算式、流出計算式自体のもつ原理的限界や基礎的水文資料の不足等からみて、その精度にはかなり問題があり、厳密な意味で前記推定値が真値(ここでいう真値とは、氾濫を考慮しない場合の加治大橋及び姫田川合流前における最大流量をいう。実際の右地点における七・一七洪水の最大流量は氾濫(溢水、破堤、霞堤からの逆流等による河水の損失、遊水)の影響を受けているので、右真値というも一種の仮定値である。しかし洪水の規模をみる場合重要なのはこの値である)に合致しているとかこれにきわめて近似しているとすることは誤りであるといわなければならない。

(ロ) しかし、一方、前記推定値が真値と全くかけはなれており、七・一七洪水の規模について何ら実相をとらえていないとすることも飛躍である。なぜなら、前記推定値を算出するについてはその過程において不十分ながらも検証がなされているからである。

株式会社建設技術研究所が貯留関数法により行つた流出解析についていえば、前記報告書(〈証拠省略〉)によれば、実測流量波形(もつとも、吉川鑑定によれば、これ自体にも一割程度の誤差の入り込む余地があるという)の存する東北電力加治川ダム流域(同ダムは加治川上流部に位置し、集水面積五三・三平方キロメートルを有するが、加治大橋の流域面積三四六・三平方キロメートルと比べるとその六分の一ないし七分の一程度しかない)において右方法を検証し、加治川流域に適合するよう諸定数を修正して用いたとしている。

なお、吉川鑑定によれば、同鑑定人は、右貯留関数法による流出計算において用いられている諸定数の精度を知るため、隣接地域であり、かつ地質、地形の類似している胎内川流域について、右加治川において決めたと同じ定数推算式を用いて定数を定め、流量実測資料のある胎内第一、第二ダムを検証地点として検証したところほぼ満足すべき結果を得たとしている(ただし、最大流量について一、二割程度の誤差が存する)。

(ハ) 以上によれば、前記推定値は厳密に真値を言いあてているとはいえない一方、全くこれをとらえていないともいえないのであつて、結局吉川鑑定もいうように前後二割程度(二割以内ではない)の誤差を含みうる概数値として理解するのが相当である。

(3) なお、〈証拠省略〉及び弁論の全趣旨によれば、県土木部では、七・一七洪水後改修計画を立案するころにおいては、最大流量(氾濫不考慮)を加治大橋で毎秒二千三、四百立方メートル程度、下高関地区を含む姫田川合流前本川で一、四〇〇立方メートル前後程度と推定していたとうかがわれる。

四  向中条、西名柄、下高関地区破堤の状況

(一)  右三地区の破堤

北蒲原郡加治川村大字向中条地区の加治川右岸堤防が昭和四一年七月一七日午前一一時頃約一六五メートルにわたり破堤したこと、新発田市大字西名柄地区の加治川左岸堤防が同日午後五時頃約四〇〇メートル位にわたり破堤したこと、同日午後九時頃、同市大字下高関地区の加治川右岸堤防が約三〇〇メートルにわたり破堤したことは当事者間に争いがない。

(二)  破堤の経過、原因

三地区堤防とも土堤防であつたことは当事者間に争いがない。そして、

(1) 向中条地区堤防が溢水破堤したことは当事者間に争いがなく、前記三・(一)認定の事実、〈証拠省略〉及び弁論の全趣旨によれば、七・一七洪水が最高水位(岡田における水位四・四五メートル)を示したころ右原因により破堤したこと、破堤時ころの溢水深は一〇センチメートル位であり、溢水の巾もかなりの範囲にわたつていたことが認められる。

(2) 西名柄地区堤防が対岸やや下流の向中条地区堤防の破堤に伴う急激の水位の降下及びこれによる流速の増大によつて引水破堤したことは当事者間に争いがなく、前記三・(一)認定の事実、〈証拠省略〉によれば、向中条地区破堤時ころの西名柄地区水位は満水状態にあつたことが認められる。

(3) 下高関地区堤防が洗掘破堤したことは、当事者に争いがなく、前記三・(一)認定の事実及び弁論の全趣旨によれば、一〇数時間にわたり高水位が持続しその水勢が洗掘破堤の原因となつたこと、破堤時ころの水位は岡田測水所で三・八〇メートルであり、約一〇時間にわたつて続いていたゆるやかな減水期にあつたことが認められる。

第五七・一七洪水後の応急対策

一  向中条、西名柄両地区の第一次仮締切工事及び下高関地区の仮締切工事

新潟県知事=県土木部は、七・一七洪水後直ちに右三地区破堤箇所に仮締切工事を実施し、同月二二日向中条地区につき、同月二六日西名柄地区につき、同月二九日下高関地区につき、それぞれ右仮締切工事を完了させたことは当事者間に争いがない。なお向中条、西名柄地区の右仮締切工事は、その後同地区において後認定のとおり公共土木施設災害復旧事業費国庫負担法(以下単に負担法という)事務取扱要綱第九・一号ハの仮締切工事としての仮堤防工事が実施されているので、これとの関係で第一次仮締切工事である。

二  向中条、西名柄両地区の仮堤防工事

(一)  県土木部は、右両地区の右仮締切工事を完成させた後引きつづいて両地区につき同年七月三一日より築堤工事を開始し、同年八月二〇日いずれも右工事を完成させたこと及び右完成させた堤防の天端はいずれも流失した旧堤とほぼ同高であり、また上下流在来堤ともほぼ同高であることは当事者間に争いがない。

そして〈証拠省略〉によれば、両地区に築造した右各堤防は、負担法に基づく災害復旧事業として施行された応急工事(負担法事務取扱要綱第九・一号ハの仮締切工事。同九は、「令(負担法施行令)四条第二項に規定する「主務大臣が特別の事情があると認める応急工事費」の範囲は、次の各号に定めるところによる。」とし、各号のうち一号は、「次に掲げる工事に要する費用」としてイないしニを掲げ、そのうちハは、「河川、海岸若しくはこれらと効用を兼ねる道路又は砂防設備が被災して、通常の状態における流水又は海水が浸入し、当該被災施設、当該被災施設に隣接する一連の施設又は当該被災箇所の背後地に甚大な被害を与えているため又はそのおそれが大きいため、緊急に施行しなければならない仮締切工事」と定めている)であつて、後認定の改良復旧工事による本堤防が完成するまでの間の暫定的な仮堤防であつたことおよび(二)、(三)の各事実を認めることができる(但し(三)の事実のうち、向中条地区仮堤防の築堤材料として砂丘砂を使用したこと、西名柄地区仮堤防の築堤材料としてはおおむね砂丘砂を使用したこと、両地区仮堤防につき、裏法勾配を一対一・五とし、堤防に被覆土を施す設計施行であつたことは当事者間に争いがない)。

(二)  仮堤防設置の理由

七・一七洪水後、県土木部は、同洪水が在来河道の流下能力の限度をはるかに超える規模のものであつて、在来堤防(破堤箇所を含む)の部分的な改築、補強等によつてはこの程度の洪水に対処することは不可能であり、加治川全般にわたつて河巾を広げ、河床を下げて河積を拡大しあるいは湾曲部をシヨートカツトする等の抜本的な河川改修工事が必要であるとの判断の下に、建設省とも協議のうえ、恒久対策として加治川改修計画を樹立し、ただちに工事に着手する方針を決定した。

ところで、この改修工事においては、向中条、西名柄地区の大湾曲部はシヨートカツトされ、新河道が設けられることとなつた。このため、向中条、西名柄地区の破堤箇所はいずれも新河道の堤防法線から外れることとなつた。一方、シヨートカツト工事は、新河道予定地の真中にある四四戸(一五四棟)の西名柄部落を移転したうえ、新河道の掘削と新堤防の築造を行わなければならず、これが完成には約二年の工期が見込まれた。そこで、県土木部は、この期間(昭和四一年出水期の後半および四二年の出水期)の出水に対処することを目的として第一次仮締切(同仮締切は、平水位上〇・七メートルと低く、小出水でも溢水のおそれがあつた)の背後に仮堤防を設けることとしたものである。仮堤防を設けることとした位置は図二-一九(A)記載のとおりである。

(三)  仮堤防の設計及び施工

仮堤防の設計は次にのべるとおりであり、このとおり施工した(但し、西名柄地区については、施工末期に所有者の了解が得られたので、盛土の一部に付近高水敷の土砂を使用している)。右仮堤防の標準横断面図は図二-一一(A)(B)記載のとおりである。

(1) 仮堤防の設計にあたつて対象とした水位=計画対象水位

(イ) 加治川においては、向中条、西名柄地区あるいは付近の姫田川合流点下流地区に測水所がないため、県土木部は、本川の姫田川合流点やや上流にある岡田測水所の水位記録により計画対象水位を決定した。すなわち、県土木部は、同測水所の過去八年間の記録中七・一七洪水時の水位を除く最高水位四〇〇メートル(昭和三四年七月一一日記録)程度の水位をもつて計画対象水位と定め、この水位が発生したときの向中条、西名柄地区の水位を流失した旧堤防もしくは付近在来堤防の天端よりほぼ一メートル下りと判断した。この判断の根拠は次のとおりである。

岡田測水所と向中条、西名柄地区との間は約二キロ強程度しか離れていないが、その間には比較的流入量の大きい姫田川が合流しているので、岡田測水所の水位が与えられれば、向中条、西名柄両地区の水位がおのずから定まるという一義的な関係はない。しかし、県土木部は、従来の経験、すなわち、七・一七洪水時の向中条地区オーバーフローのとき岡田測水所水位が約四・四メートルであつたこと、岡田測水所水位が二・六メートルのとき向中条地区においては高水敷の高さくらいの水位が生じることと前記第一次仮締切工事をやつていたときの低水位の比較結果から、岡田測水所水位と両地区水位との間に厳密な意味での相関関係を認めることは困難であるものの、一応の相関関係は認められるとして、簡略な水位相関式を立て、これにより前記のとおりの判断をなしたものである。

(ロ) 公共土木施設災害復旧事業査定方針第七には負担法事務取扱要綱第九の応急工事のうち一号に定める工事(右方針では一号に定める工事を応急仮工事といつている)を採択する場合の基準が定められており、仮締切の高さについては、方針第七・三項の後段に「要綱第九・一号ハの場合における仮締切工事にあたつては、仮締切の高さは、施行時期を考慮して前項(第一項の誤り)第六号の「通常の状態」における水位等をこえない範囲において決定するものとする。」とあり、また方針第七・一項六号に「要綱第九第一号ハにいう「通常の状態」の判断にあたつては、河川にあつては警戒水位(警戒水位の定めのない場合は河岸高の五割程度)、海岸にあつては……中略……を基準とし通常発生波浪を勘案して行うものとする。」と定められているところ、県土木部は、本件仮堤防の設計にあたつて、仮堤防の防護する背後地の重要性と現実に発生した被害の実情並びにシヨートカツト工事に要する期間等を特に考慮に入れて右「通常の状態」を判断し、警戒水位(岡田測水所付近にあつては、二・六〇メートル)を上廻る前記(イ)の水位をもつて計画対象水位としたものである。

(2) 築堤材料

本件仮堤防の築堤材料としては、蓮潟(向中条につき)、藤塚浜(西名柄につき)両地区の砂丘砂が採用された。

これを採用するに至つた理由は次のとおりである。

本件仮堤防の築造にあたつては、出水期間であるため緊急に大量の盛土(向中条地区にあつては約二三、〇〇〇立方メートル、西名柄地区にあつては約四四、〇〇〇立方メートル計六七、〇〇〇立方メートル、ダンプトラツクで延一万四、五千台)の施行を必要とした。そこで、県土木部は、この観点から土取場を検討した。土取場としては、前記蓮潟、藤塚浜地区の外、向中条、西名柄両地区高水敷、五十公野、茗荷谷地区、本川上流河道等が一応候補にのぼつたが、

(i) 向中条、西名柄両地区の高水敷の土砂は、その高水敷が民地のため、所有者の承諾が必要であるが、補償問題等もありその承諾を早急に得られる見込みがなかつたこと、

(ii) 五十公野地区及び茗荷谷地区の山土は、土取場及び進入路が狭く、これらの拡張に要する民地の補償問題の解決に手間がかかることが見込まれたこと、さらに五十公野の山土を運搬するについては、救援物資の運搬や復旧活動のための車の往来の激しい新発田市の市街地を通過せねばならず、交通上の制限を受け、また他の緊急車両の交通の障害となること、

(iii) 本川上流の河道掘削土砂は、運搬路が被災したためその復旧に時日を要すること、

などの難点があつたため、結局、県土木部はこのような難点がなく前記の要件を充す蓮潟及び藤塚浜地区を土取場として選定した。

(3) 計画断面の決定

県土木部は、計画断面を次のように決定した。まず堤防の裏地盤高は計画対象水位より約五メートル下りであつたので、敷巾はこの高低差に土質、洪水の継続時間(一四時間と想定)等を加味して前面の法肩から下した垂直線から裏法尻までの水平距離を約一五メートルとした。法勾配は砂の安息角を参考にしたうえ一対一・五(水平距離一・五に対し垂直距離一)とし、法面の安定のために裏小段を設けることとした。

また、計画対象水位上に約一メートルの余盛を実施することとした。余盛とは、一般的に、堤防の工事施行にあたつて、堤体の圧縮沈下、基礎地盤の圧密沈下、天端の風雨による損傷等を勘案して、計画高以上に盛り上げておくものをいうが、本件仮堤防の余盛については県土木部は、前記の目的の外、越波の防止、水防活動の便宜等を考慮した。

さらに、堤防脚部の洗掘を防止するため鋼矢板を打ち込み、その前面には第一次仮締切との間を麻袋を充填することによつて根固めとした。

鋼矢板の高さ(ほぼ高水敷高を目安とした)より上部の法覆には、計画対象水位まで蛇籠を施して流水による表法面の流失を防ぐこととした。

また法面を保護するため、山土で厚さ〇・三〇メートルの被覆土を施すこととした。

(4) 法線

堤防法線は、図二-一二(A)、(B)〈省略〉記載のとおりである。

流失した旧堤防地盤は深掘れが生じたためこれを避けて月の輪型に法線を決定した。

第六七・一七洪水後の恒久対策

一  七・一七洪水後、県土木部は恒久対策として加治川の抜本的な改修計画を樹立し、ただちに工事に着手する方針を決定したことは前認定のとおりであり、〈証拠省略〉及び弁論の全趣旨によれば、県土木部は建設省と協議のうえ、右改修を、河川の施設災害の特に激甚であつた本川中流部については災害復旧助成事業で、その下流部及び支川姫田川、坂井川については中小河川改修事業でそれぞれ実施する方針を立てたことおよび次の二、三の各事実を認めることができる(但し、三・(三)の事実のうち、下高関地区について七・一七洪水後改良復旧工事がなされたこと、新堤防築堤工事は、堤防根固工を除き昭和四二年三月三一日完成したこと、右根固工は八・二八洪水当時施行されていなかつたこと、右新堤防のコンクリートブロツク張りの高水護岸は天端より一・二メートル以下にのみ施行したこと、右堤防表小段天端には表小段法肩寄りに一・五メートル巾にのみコンクリートブロツク張りが施行されたこと、下高関地区右岸堤防の一部二〇メートル(後認定の七・一七洪水時破堤箇所下流端から下流側二〇メートル)につき当初設計では天端より一・二メートル下り以下の表法にコンクリートブロツク張りをすることとなつていたが、八・二八洪水当時このコンクリートブロツク張りがなされていなかつたこと、左岸出州中にコンクリートブロツク張りの低水護岸工事(後認定の〈41〉)加助六の六L=四三九メートルの低水護岸工事)を施行したことは当事者間に争いがない)。

二  加治川改修の基本方針等

(一)  基本高水流量

計画日雨量を二八〇ミリメートル、基本高水流量(基準点加治大橋)で毎秒三、〇〇〇立方メートルとし、加治川本川及び支川内の倉川に各設置する治水ダム計二箇所でこのうち毎秒六〇〇立方メートルをカツトし、残りの毎秒二、四〇〇立方メートルを河道計画高水流量とした。右基本高水流量および河道計画高水流量の各河道への配分は図二-一七〈省略〉に記載されてあるとおりである。

(二)  災害復旧助成事業

河川施設災害が特に激甚であつた加治川本川の向中条、西名柄地区の湾曲部から上流小戸橋に至る延長一二・四キロメートル間については、主務大臣=建設大臣が決定し国が一定の負担率にもとづいてその一部を負担する災害復旧費(負担法三条、四条、七条等参照)の外、別途国及び県の予算補助による災害復旧助成費を得て災害復旧助成事業で抜本的に改良復旧する方針を立てた(災害復旧助成事業とは、河川または海岸の災害が激甚であつて、一定区間の被害が著しいため、災害復旧工事のみでは維持上または公益上、十分な復旧効果が期待しがたく、再度災害が繰り返えされるおそれが多い場合において、これを契機として災害復旧費に他の費用つまり助成費を加えて一定の計画の下に施行する改良復旧事業をいう)。そして、右事業は、建設省による災害復旧費の査定およびその決定並びに建設省による改良復旧を行うための調査および大蔵省への予算措置の要求等の経過の後に、助成費を予備費から支出することについての閣議決定の行われた昭和四一年一二月一六日正式に成立した。右事業は加治川復旧助成事業と呼ばれ、その事業区間を図示すれば図二-一六記載のとおりであり、また事業費総額は約三〇億円であつて、その内訳は災害復旧費約一二億円、助成費約一八億円である。

右事業によつて行う右区間の改修計画の概要は次のとおりである。すなわち、河道計画高水流量は、姫田川合流点より下流を毎秒二、四〇〇立方メートルに、上流を毎秒一、一四〇立方メートルとし、河道計画は、河床を掘り下げてかねてより懸案であつた天井川の解消を図るとともに河巾を広げて河積を拡大すること、堤防法線を是正し流路を整正すること(特に羽越線下流の向中条・西名柄地区の大湾曲部については、これをシヨートカツトして直線河道に改良すること)、堤防を強化拡大し、護岸、根固工を整備すること等を骨子としている。右事業は四三年出水期までに概成、四五年度完成を目途として四一年度に着手された。

(三)  中小河川改修事業

中小河川改修事業は、昭和二七年より引続き実施中の事業であるが、七・一七洪水に鑑み、従来の計画高水流量毎秒二、〇〇〇立方メートルを基本高水流量毎秒三、〇〇〇立方メートル(河道計画高水流量毎秒二、四〇〇立方メートル)に変更して新たに計画を立て直し、国及び県から大巾な事業費の増額を得て改修を行う方針を定め、ただちに用地交渉に入つた。さらに支川姫田川坂井川についても従来の計画を改訂し、実施に移した。

(四)  治水ダム建設事業

七・一七洪水に鑑み、本川最上流部に加治川治水ダムを設置し、また、本川上流部において合流する内の倉川に農林省において設置を計画していた内の倉ダムに洪水調節機能を加え、右二箇所のダムによつて洪水調節を行うこととした。右洪水調節計画は、加治川ダムにおいてダム地点の計画高水流量毎秒一、〇四〇立方メートルのうち八四〇立方メートルを、内の倉ダムにおいてダム地点の計画高水流量毎秒五五〇立方メートルのうち三五〇立方メートルを洪水調節しようとするものである(これによつて本川下流の加治大橋においては、加治川改修計画の基本高水流量毎秒三、〇〇〇立方メートルのうち六〇〇立方メートルが洪水調節されることとなる)。加治川治水ダムは、昭和四一年八月に計画され、ただちに予備調査に入り翌四二年度には実施調査を行い、同四三年度もしくは同四四年度からは建設に着工し同四七年度には完成させる予定であつた。

内の倉ダムは、農業用水及び上水道用水の補給を目的として昭和三九年一二月、前示のとおり農林省において設置を計画したものであり、その後、ただちに予備調査に入り翌四〇年度から四一年度にかけて実施調査を行つていたところ、七・一七洪水が発生したものである。そこで、その後同ダムの設置は加治川治水計画の一環に組込まれ、同ダムに洪水調節機能が加えられたものである。同ダムの建設の工程は、昭和四二年度に着工し、同四七年度には完成の予定であつた。

両ダムの計画時点における事業規模は、加治川ダムにあつては約四五億円、内の倉ダムにあつては約四四億円であつた。

三  加治川災害復旧助成事業の実施状況

(一)  昭和四一年八月災害復旧助成事業で行う前記区間の改修計画が決定されるや、県土木部は、これをすみやかに実施に移すこととし、破堤箇所、欠壊箇所等危険部分の改修に着手し特に下小松、下高関、下新保等上流部の破堤箇所を重点的に施行し、また西名柄、向中条地区湾曲部のシヨートカツトについては、西名柄部落住民と用地交渉を進めるとともに一部左岸築堤を開始した。そして、昭和四一年度には、事業費の約一七パーセントの工事を終了した。

昭和四二年度の事業の施行の重点は、西名柄シヨートカツト工事の完成、河床掘削、西名柄より岡田山付堤間の左岸堤防工事の完成及び上流水衝部分の築堤と低水護岸工事等とした。そして、昭和四二年度には事業費の約三〇パーセントの工事を目途に施行中のところ、八・二八洪水に遭遇した。八・二八洪水当時を基準とする右事業の進捗状況は、おおむね図二-一九(A)、(B)記載のとおりである。

(二)  向中条、西名柄地区の災害復旧助成事業について

加治川本川の羽越線鉄道橋下流約一・一キロメートル間の向中条・西名柄地区は河積が狭いうえ著しく蛇行していて、この地区の河道整正は、かねてから加治川改修の懸案となつていた。そこで、県土木部は、この蛇行をシヨートカツトして直線河道とするとともに河床を掘り下げ、河巾を広げるなど抜本的な改良復旧を計画し(新堤防法線は図二-一九(A)記載のとおり)、本事業によつてかねてからの懸案を一気に解決することとした。

この新河道は西名柄部落一ぱいにかかり、七百年来の古い歴史を有する西名柄部落四四戸(一五四棟)は集団移転のやむなきに至つた。県土木部は、昭和四一年八月二五日より西名柄部落と集団移転の交渉に入つた。右交渉は種々難航したが、同年一一月八日に至つてようやく用地の測量並びに建物調査のための部落内への立入りが認められ、その後の連日の個別交渉の結果、昭和四二年四月一五日に至つてすべての調印が終つた。

部落の移転先の宅地造成は、同年五月二五日に完了し、翌二六日から一斉に基礎工事に着手して、同年七月四日に移転が終了し、家屋等の物件の撤去は同年八月一二日にようやく完了した。

左岸築堤工事(含む左岸低水護岸工事)は急を要したため、移転交渉の全調印が終了していなかった昭和四二年二月より住民の了解のもとに移転等に支障のない部分から着手し、同年七月三一日には図二-一九(A)記載のとおり新堤防を七・一七洪水の破堤箇所に築造した仮堤防に接続させ、引き続き右接続部より上流の仮堤防前面部に新堤防の盛り土と低水護岸工事を行い、また、右接続部より下流の新河道掘削工事を行つていたところ、八・二八洪水に遭遇した。

なお、右岸新堤防工事は、左岸新堤防工事と新河道掘削工事を完了し新河道に通水させた後でなければ着手できず、かつ、旧川を締切ることになるので、昭和四二年出水期後でなければ着手できなかつたものである。

(三)  下高関地区の災害復旧助成事業について

下高関地区の災害復旧助成事業は、基本高水流量(毎秒一、七四〇立方メートル)から二箇所の治水ダム設置によるカツト量を除いた残量(河道計画高水流量)毎秒一、一四〇立方メートルが安全に流下するよう堤防の強化、河床の掘削、左岸の堤防法線の是正等の改良復旧を行うものであり(計画された同地区の大まかな標準横断面は図二-一八〈省略〉の上から第三図記載のとおりである)、昭和四一年一一月より着手されたが、次の出水期までに最も緊急を要する右岸破堤箇所及びその直近上下流の堤防工事(図二-一九(B)記載の〈41〉)加助六の一L=三二〇メートル及び〈41〉)加助六の五L=七三・五メートル)並びに左岸低水護岸工事(〈41〉加助六の六L=四三九メートル)から始め、昭和四二年三月には右岸破堤箇所(但し、堤防根固工を除く)及び直近上下流(但し、堤防根固工及び後述の一部高水護岸工事を除く)の堤防工事並びに左岸低水護岸工事を完了した。引き続き上下流の堤防の強化を実施中であり、右岸堤防根固工(コンクリート十字ブロツク三連の設置)、左岸出州の削除を含む河床掘削、左岸の堤防法線の是正等にはいまだ着手するに至らなかつたところ、八・二八洪水に遭遇したものである。なお、下高関地区の七・一七洪水による破堤箇所は〈41〉)加助六の一L=三二〇メートルの施行区間のうち下流六〇メートルと上流四〇メートルを除いた部分である。破堤箇所に築造した新堤防の標準横断面は図二-二〇記載のとおりである。

破堤箇所に築造した新堤防の盛土は前面河床の掘削土砂を用い、被覆土には新発田市板山地区の土を使用した。この新堤防は前記河道計画高水流量に対応する計画高水位を天端より一・二メートル下りとし、この計画高水位以下の表法にコンクリートブロツク張の高水護岸を施し、さらに余裕高として計画高水位より上部に一・二メートルをとり、この余裕高部分の表裏法に三〇センチメートルの被覆土を施し張芝を行つた。表小段の天端には低水護岸の頭部よりの洗掘破堤を防止するため一・五メートル巾の折曲げ工を設け、高水護岸の下部からの洗掘破壊を防ぐため一メートル護岸の根を入れることとした。新堤防及び直近上下流の在来堤前面には根固工を設ける計画であつたが、河床掘削を実施する際あわせてこれを施行することとしていた。七・一七洪水後破堤箇所に築造した新堤防と流失した旧堤防の断面構造を比較すると、次のとおりである。すなわち、新堤防は旧堤防と比較し、天端高において下流側一〇〇メートルにつき二〇センチメートル高く施行させ、天端巾において一・三〇メートル、裏小段巾において二・五〇メートル拡巾されて施行されている。また、構造上においては、旧堤防の表法面が全延長にわたつて土羽堤であつたのに対し、新堤防の表法面には、全延長にわたつてコンクリートブロツク張工の低水護岸及び高水護岸が設けられている。

なお、七・一七洪水で破堤を免れた〈41〉)加助六の一の施行区間三二〇メートルのうちの前記下流側六〇メートルのうち、破堤箇所寄りの二〇メートルについては、四一年度工事で、堤防嵩上げ、低水護岸の設置の外破堤箇所と同様天端より一・二メートル下りにコンクリートブロツク張りの高水護岸を施す計画になつていたが、その後設計変更により右の部分の高水護岸工事は次年度施行ということとなり八・二八洪水当時においても未着手であつた。

また、〈41〉)加助六の六L=四三九メートルの低水護岸工事は、左岸から大きく張り出している出州中に、右施行区間にわたつて、コンクリートブロツク張りの低水護岸を施したものである(図二-一八〈省略〉上から第三図参照)。

第七八・二八洪水について

一  新潟県下越地方は日本海西部に発生した低気圧の影響により前線活動が活発となり、昭和四二年八月二八日から二九日にかけて大雨が降り続き、加治川、荒川等の河川が増水して破堤を招いたこと、加治川は、この時、向中条、西名柄、下高関地区をはじめ合計七箇所にわたり堤防が破堤したこと及びそのため後背地に甚大な被害の生じたことは当事者間に争いがない。

ところで、右のごとく多くの破堤と後背地への甚大な被害を招いた加治川の洪水の状況及び右洪水をもたらした当時の気象状況は以下にのべるとおりである。

二  気象状況

第四・二認定の事実並びに写真、図面、統計数字部分については成立に争いがなく、〈証拠省略〉及び弁論の全趣旨によれば、次の事実を認めることができる。

(一)  気象の特徴

昭和四二年八月二六日から二九日にかけて新潟県及び山形県南部にわたり秋雨前線による豪雨が発生した。八・二八豪雨といわれるこの豪雨の特徴をあげれば次のとおりである。

(1) 八・二八豪雨は、場所的範囲については前年の七・一七豪雨とほぼ似ているが、強雨の集中度、規模において七・一七豪雨をはるかに上回つた。このような規模の大きい豪雨が秋雨前線によつて発生することは珍しいことであるといわれている。

(2) 豪雨が集中した地域は新潟県北部であり、特に荒川、胎内川及び加治川流域が最も激しかつた。

(3) この豪雨は二波に分けることができ、第一波は八月二八日午後、第二波は同日夜から二九日朝にかけてであり、第二波がこの豪雨最大の強雨をもたらした。

(4) 降水量は、七・一七豪雨をさらに大巾に上回り、新記録を観測した所が多かつた。

(二)  気象の経過及び降雨状況

昭和四二年は春から降雨が非常に少なく、空梅雨であり、八月下旬になつても太平洋高気圧の勢力が依然として強かつた。同月二六日になつて沿海州から冷い高気圧が南下し太平洋高気圧との間に前線が形成された。同月二六日から二七日にかけてこの前線上を低気圧が通つて三陸沖に抜けたが、前線はその後も残り、同月二八日三時には日本海西部に次の低気圧一、〇〇二ミリバールが現われて東進し、東北地方の日本海側及び新潟県北部では雨が強まり、同日一五時前後には第一波の強雨をもたらした。同日二一時にはこの低気圧は九九九ミリバールに発達し、これが秋田・酒田沖に達した頃から前線活動が強まり、第二波の強雨をもたらした。新潟県北部では、同日夜中にこの低気圧が東北地方中部を横断する頃から降水量の増加が甚しかつた。

二八日から二九日にかけての降雨状況の詳細は次のとおりである。

(1) 二八日三時日本海西部の低気圧は日本海中部を通つて二八日二一時には秋田・酒田沖に進み、南東に延びる温暖前線はやや北上して新潟県北部で停滞し活動が活発となつた。このため、二八日朝から夜にかけて東北地方の日本海側や新潟県北部で強い雨が断続した。特に二八日一二時から一五時では加治川、胎内川流域で強く、その後雨域はやや北上して夕刻から夜にかけて胎内川、荒川、三面川を含む北部の広い地域で三時間に五〇ミリから荒川などの中心域では一〇〇ミリを越す降雨があり、河川は破堤・溢水し山崩れ、がけ崩れ等の被害が続発した。

(2) 低気圧は二八日二一時すぎに秋田・酒田の間に上陸し、東北地方を横断して二九日三時には三陸沖に抜けた。

この間前線活動はさらに強まり降雨の中心は荒川から加治川、さらに南下して阿賀野川流域に広がり、加治川では再度連続の破堤となつた。また、阿賀野川上流の安田町、三川村などでは二九日二時から四時にかけ山間部の渓流、小河川などは一斉に土石流となつて山津波を起し多数の死者を出す大被害をこうむつた。この間の各地最大時間雨量は七・一七豪雨時を大巾に上回る量を記録した。

(3) 二九日九時には前線はさらに南下し、これに伴い強雨域は中越地方に下がり、県北部の雨は峠を越して小降りとなつた。

(三)  降水量

(1) 八・二八豪雨時の各観測所における各種降水量および既往の記録については、表三-一、三-二、三-三、三-四、図三-六〈省略〉、三-九〈省略〉上から第二図のとおりであり、新発田(気象台所属)、赤谷における八・二八豪雨以前の八・二八豪雨の超過確率(試料数新発田七四、赤谷四五)および八・二八豪雨以後の八・二八豪雨の超過確率(試料数 新発田七四、赤谷七五)を求めれば、表三-五のとおりである。

(2) 八・二八豪雨と七・一七豪雨とを比較すると、加治川流域内の新発田(気象台所属)、赤谷、二王子岳、田貝山の各観測所の八・二八豪雨の日雨量の記録は、七・一七豪雨の日雨量の記録を大巾に上回つた(表三-二参照)。

また、同流域内の新発田(県土木所属)、同(農林省所属)、赤谷、二王子岳、田貝山の各観測所の八・二八豪雨の最大時間雨量は七・一七豪雨のそれを大きく上回つた(表三-一、二-一参照)。

さらに、加治川流域内及び同周辺部の新発田(県土木)、赤谷、二王子岳、田貝山、加治川ダム、胎内第一ダム、胎内第一発電所の各観測所の八・二八豪雨の最大二四時間雨量は、二王子岳で七・一七豪雨のそれとほぼ同じであり、田貝山では七・一七豪雨のそれが上回つている外はすべて七・一七豪雨のそれを上回つた(表三-三参照)。

三  八・二八洪水の状況

(一)  水位について

(1) 〈証拠省略〉によれば、次の事実が認められる。

(イ) 加治川の水位は、流域内の降水量の変化に四時間前後のずれで対応しながら変動しており、八月二八日午後の第一の強雨群で同日一五時ころには警戒水位を越え、一七時ころには第一波のピークに達し、その後二一時ころには一旦警戒水位くらいに減水したが、同日夜から二九日朝にかけての集中的な第二の強雨群で急速に増水し、二九日三時ころには第二波のピーク(八・二八洪水の最高水位)に達した。

(ロ) 岡田測水所水位について

岡田測水所における水位の変動状況は、ほぼ図三-七〈省略〉のとおりであり、八月二八日一七時の第一波ピーク水位は約四・〇〇メートル、第二波のピーク水位(八・二八洪水の最高水位)は約五・三〇メートルであつて、右最高水位約五・三〇メートルは七・一七洪水時の最高水位約四・四五メートルを大巾に上回つた。また警戒水位以上の洪水位継続時間は、第一波では約六時間、第二波では約八時間計一四時間くらいであつて、七・一七洪水に比し洪水波形は極めて急激に変動した。

(ハ) 支川水位について

支川姫田川、坂井川については測水所がないため八・二八洪水の水位波形を再現することはできない。しかし、水防従事者等の目撃により、坂井川の八・二八洪水時の最高水位については七・一七洪水時の最高水位との比較という形で明らかにすることができる。)

(i) 麓地区

七・一七洪水時の最高水位を示したころ(七月一七日昼前)は、同地区斎藤和夫方前の右岸堤防兼用の県道は溢水状態にあり溢水深は天端より上、足首程度であつたが、八・二八洪水時においては、水位が同人方前県道で天端より上、ひざ下程度まで上昇し、溢水防止用の麻袋積みの上を水が越流するようになつた後三〇分くらいした八月二九日午前一時半ころ同人方前より下流の同地区右岸堤防兼用の県道が破堤したため減水した。

(ii) 中森新田地区

同地区は洪水時下流三光川合流点付近霞堤からあふれた水で湛水を来すことのある地区であるが、七・一七洪水時の最高湛水深は同地区布施藤公方で床下浸水程度であつた。これに対し、八・二八洪水時においては、八月二八日午後一〇時ころより二度目の増水があり、同人方で床上三〇センチメートル位の湛水深を示していたところで八月二九日午前一時半ころの前記麓地区破堤の影響により減水した。

(iii) 〆切地区

七・一七洪水時の坂井川の最高水位時頃(七月一七日昼前)、〆切橋下流の左岸堤防兼用県道は溢水状態にあり溢水深は三〇センチメーートル程度であつた。七・一七洪水後その付近県道は五〇センチメートルくらい嵩上げされたが、八・二八洪水時においては、八月二八日夜から二度目の増水があり(一度目の増水は同日午後四時ころがピークでその水位は天端より上三〇センチメートル位)、水位が右嵩上天端より上八〇センチメートル位に達した後さらに上昇して溢水防止用に立てた畳の上を溢水し始めたころ上流麓地区が破堤したため、ようやく減水し破堤を免かれた。

(iv) 小{白七}地区

七・一七洪水時の同地区最高水位は七月一七日午後一〇時すぎに生じたが、これは本川下高関地区破堤による氾濫水が姫田川に流入し坂井川の河水を堰止める形になつたため生じたものである。そこでこれを除外すると、七・一七洪水が最高水位を示したのは七月一七日昼前であり、そのときは同地区佐藤やすじ方前の右岸堤防兼用県道は溢水深五〇センチメートルの濫水状態にあつた。七・一七洪水後同地区県道は嵩上げされ、同人方前付近で嵩上げ高は一メートル位にも及んだ。にもかかわらず、八・二八洪水では、八月二八日夜遅くより上昇した水位は同人方前付近において右嵩上げ天端の上六〇センチメートル位に達し溢水防止のために四段に積んだ麻袋の上を河水が越流する状態となつた。しかし、その後上流麓地区において破堤があつたため、小{白七}地区は減水に向つた。

(2) 岡田測水所の八・二八洪水時における目視観測水位記録(〈証拠省略〉)の正確性について

岡田測水所は自記水位計を備えているが、右水位計は八・二八洪水時第一波の急激な増水期半ばの八月二八日昼すぎ導水管に土砂がつまり故障したため、これを発見した同測水所の管理人京野重栄門は直ちに目視観測に切り替えた(〈証拠省略〉)。その結果を記録したものが〈証拠省略〉であり(〈証拠省略〉は右記録を自記紙上に移記してグラフ化したものである)、被告ら主張の図三-七〈省略〉の水位変化図のもとをなしているのは右記録である。ところで、京野重栄門の行つた目視観測はすでに洪水で目視観測用の水位標が流出した状態でのものである。従つて、右目視観測の結果にある程度の誤差が含まれているであろうことは否定できない。しかし、〈証拠省略〉により同人の採用した目視観測の手法を検討すると、同人は右誤差の混入をできるだけ避け精度を高める工夫をこらしながら右目視観測をなしていることが認められるのであつて、これによれば右目視観測の結果に混入しているであろう誤差は決して大巾なものでなく僅少なものにすぎず(但し、全体に数センチメートルないし一〇センチメートル程度実際の水位より低目の値が出ていると思われる)、右目視観測の結果の記録である〈証拠省略〉はほぼ岡田測水所の水位の実態を示すものと考えてよいと思われる。もつとも、右記録中には、その体裁からして観測当時に記入したのでなく後刻記憶にもとづいて記入したのではないかと思われる部分がある(二九日午前一時四・四〇メートル、午前一時半四・八〇メートルの各記載)。この部分の記入時期につき、証人京野重栄門は観測の都度記入したものであつて後刻記入したものでない旨供述しているが、右供述は措信できない。従つて、この部分については前記の理由だけではその正確性を根拠づけることはできない。そこでさらに右部分の正確性につき検討するに、右水位記録中この部分を除くその前後の時点における水位の記録をみると、問題の二九日午前一時、一時半ころは八・二八洪水の第二波のピーク五・三〇メートルに向けての水位急上昇期にあつたことが明らかに推認できるところ、経験上、水位急上昇期にあつては河川上流部を別としてその洪水波形は直線的になり一気上昇の傾向を示すこと、そして前記各記載水位はかかる経験に符合する変動を示していることに徴すると、前記各記載水位が後刻記載された故をもつて不正確であるとすることはできないといわなければならない。

(二)  流量について

(1) 〈証拠省略〉によれば、前述の株式会社建設技術研究所は、八・二八洪水につき貯留関数法を採用して流出解析を行い、氾濫がなかつたとした場合の八・二八洪水の最大流量を次のとおり算出している(但し飽和雨量一〇〇ミリメートルと仮定)。

(イ) 加治大橋 毎秒三、〇四三立方メートル

(ロ) 姫田川合流前本川 毎秒一、九六七立方メートル

また吉川鑑定(付属資料二-五〈省略〉)によれば、同鑑定人は、八・二八洪水につき中安法を用いて流出解析を行い、八・二八洪水の最大流量(氾濫不考慮)を次のとおり算出している。

加治大橋 毎秒二、八四〇立方メートル

ところで、右各算定値の精度であるが、この点については、七・一七洪水の各算定値の精度について述べたと同様の問題があり、従つて右各算定値についても七・一七洪水の場合と同様前後二割程度の誤差を含みうる、すなわち前後二割程度の巾をもつ概数値として理解するのが相当である。

(2) 八・二八洪水と七・一七洪水の規模の比較

流出解析による八・二八洪水及び七・一七洪水の最大流量の算定値はいずれも前後二割程度の誤差(絶対的誤差)を含みうる概数値であること以上述べた通りであるが、両洪水の規模を比較する場合間題となる相対的誤差は右の絶対的誤差よりはかなり少ないと考えてよいから、結局、両者の規模については、最大流量に関して八・二八洪水の方が七・一七洪水より二、三割大きかつたと推定される。

第八八・二八洪水における向中条、西名柄、下高関地区破堤状況

一  向中条、西名柄、下高関地区付近加治川中下流部の八・二八洪水当時における気象状況について

(1)  右三地区に近い新発田の各観測所の時間雨量の変動状況(前認定の図三-六〈省略〉右上から第一、第二図、図三-九〈省略〉上から第二図参照)から、右三地区の八・二八豪雨時の降水状況を考えると、八・二八豪雨時本件三地区付近加治川中下流部においては、後述する向中条、西名柄地区の破堤時より約一〇ないし一一時間位前に二時間位にわたつて毎時四〇ミリ前後の強雨がふり、その後時間当り一〇ミリないし二〇ミリ前後の雨が小康状態を含みながら続き、向中条、西名柄地区破堤時前後ころは雨量強度が時間当り二〇ミリないし四〇ミリ前後であつたと推定される(ちなみに、七・一七豪雨時においては、前認定の図二-六〈省略〉右上から第二図によれば、本件三地区付近加治川中下流部では、向中条地区破堤八時間位前から破堤時ころにかけて平均時間当り一〇ミリ前後、最大時間当り二〇ミリ前後の降雨、向中条地区破堤時前後ころは時間当り一〇ミリ前後の降雨であつたと推定され、両豪雨を比較すると雨量強度については八・二八豪雨の方が七・一七豪雨をはるかにしのぐものであつたと考えられる。なお、八・二八豪雨時の本件三地区付近加治川中下流部における右約一〇ないし一一時間の総雨量は、七・一七豪雨時の本件三地区付近加治川中下流部における右約八時間の総雨量の二倍以上あつたと推定される)。

(2)  弁論の全趣旨によれば、新発田(県立高校)の気象観測値のうち、風向、風速の記録は図三-一〇〈省略〉のとおりであると認められるところ、これによると、本件三地区付近加治川中下流部においては、後述する向中条、西名柄地区破堤時より一〇時間位前から下高関地区破堤時ころにかけて、西ないし南からの、すなわち加治川本川左岸より右岸方向に向けての、平均秒速八メートルないし一二メートル前後の強い風が断続的に吹付けていたことが推定される。

二  八・二八洪水発生当時における本件三地区における堤防の現況等について

(一)  向中条地区

七・一七洪水後築造した向中条地区仮堤防の断面・構造は第五・二・(三)において述べたとおりであるが、八・二八洪水時までこれに変更が加えられた事実は認められない(ただし、〈証拠省略〉によれば、昭和四二年四月頃右仮堤防の半分よりやや下流の裏法が一部損傷したため、県土木部において右損傷部分を補修している事実は認められる。なお、その損傷の原因についてであるが、原告らは、同年四月一〇日頃同地区仮堤防の鋼矢板をやや越える程度の融雪出水があつた際、右増水時の堤内への浸透水により損傷した旨主張し、〈証拠省略〉において、これに副う供述をなしているが、〈証拠省略〉によれば、右損傷の原因は、むしろ付近の農地復旧施行中のブルトーザーがその排土板で仮堤防の法尻を削つたことにあつたのではないかとうかがわれるのであつて、これら証拠に照らし、〈証拠省略〉は直ちに措信できない)。

(二)  西名柄地区について

西名柄地区仮堤防の完成時の断面及び構造は第五・二・(三)で述べたとおりであるが、〈証拠省略〉によれば、県土木部は、昭和四二年八月一〇、一一日、西名柄地区仮堤防を、上流在来堤との接合部付近より下流新堤との接合部付近までの間の約一二〇メートルにわたり(図二-一九(A)参照)、災害復旧助成事業にもとづく仮堤防前面の新堤築造工事のための工事用資機材搬入用道路として用いるため切り下げ、かかる状態において八・二八洪水時を迎えたこと(ただし、以上の事実のうち、昭和四二年八月一〇日ころ右仮堤防を上流在来堤接合部より下流へ約一二〇メートルにわたつて切り下げたことは当事者間に争いがない)および以下の事実を認めることができる。

(イ) 切り下げ高さ

天端より約五〇センチメートル程度。

原告らは、この切り下げ高さにつき、天端より約一・二メートルと主張するが、右主張が誤りであることは〈証拠省略〉(以上はいずれも切り下げ状況(但し一部)を撮影した写真であり、天端より一メートル下りに設置されてある鉄線蛇籠は何ら切り取られていない)により明白であるというべきである。なお、〈証拠省略〉は、「切り下げ箇所は大体一様に蛇籠上端付近まで切り下げられてあつた。」旨供述するが、右供述は前掲証拠に照らし措信できない。

(ロ) 切り下げの理由

県土木部は、左岸新堤防を仮堤防に接続させた後、新潟県の台風シーズン(二一〇日もしくは二二〇日以降)を前に左岸新堤防を全延長にわたつてともかく概成させ後背地の安全を守るとの方針のもとに九月一〇旧概成を目途に仮堤防前の新堤防築造工事にとりかかつた。ところで、この部分の新堤防築堤工事は、下流のそれと異り仮堤防前面に施工するものであるため堤内地から堤外地(仮堤防前面)へ通ずる右築堤工事に必要な資機材(たとえば、鋼矢板等の各種資材、河床掘削のためのシヨベルカー、盛り土等のためのダンプトラツク、ブルトーザー、鋼矢板打ち込みのためのドラグライン等)の搬入路を設ける必要があつた。そこで、県土木部では、かねてより、そのためのルートをあれこれ検討していたが、結局搬入路として、新堤防と仮堤防の接合部を通過している新発田市道(通称名柄道路、同道路は羽越線鉄橋付近から在来堤裏法尻に沿い、さらに前記部分の仮堤防裏法尻脇を通つて、前記仮堤防・新堤防接合部に至り、この接合部を斜めに横断して西名柄部落に通じている(図二-一九(A)参照。なお、同図中、仮堤防・新堤防接合部から南へ向つている道路は農道である))から仮堤防天端を上流へ伝い、仮堤防・在来堤接合部やや上流より仮堤防前面へ降りるというルートを採択し、と同時に天端巾三メートル(図二-一一(B)参照)では資機材運搬時法崩れを起すおそれがあるので(例えば、ドラグラインは三〇トン位の重量を有する)前記部分の仮堤防を約五〇センチメートル程度切り下げ天端巾を四・五メートルとしたものである。

なお、候補ルートとしては、他に、(i)名柄道路から新堤防・仮堤防接合部下流の仮堤防上に昇り、そこから仮堤防前面に降りるルート、(ii)名柄道路から天端巾の広い上流在来堤に昇り、これを通つて在来堤・仮堤防接合部付近から仮堤防前面に降りるルート(iii)名柄道路から前記約一二〇メートルの部分の仮堤防の裏側を斜めに昇つて在来堤・仮堤防接合部付近に至りここから仮堤防前面に降りるルート等が考えられたが、県土木部は、検討の結果、たとえば、(i)については、新堤防・仮堤防接合部より下流の仮堤防(前面は深掘れしていて、そのままでは、急斜面の昇降のできないドラグラインはもとよりブルトーザーすら安全に昇降できない状態であること等、(ii)については在来堤の上に農業用水の取水管がとりつけてあること等、(iii)については、搬入路の設置だけでなく、付近の復旧され植付の終つている田をつぶして市道の付替もしなければならないこと、また、その工事の間、市道の交通を遮断しなければならないこと等の難点があるとして採用しなかつたものである。

(ハ) 洪水対策

県土木部では、右切り下げに伴い、洪水に対する対策として、洪水のおそれのあるときは、西名柄地区のシヨートカツト工事を請負つている株式会社加賀田組に、同社がその付近で常時使用しているダンプトラック数十台、ブルトーザー数台を使つて直ちに切り下げ天端上に、付近に堆積してある河床掘削土砂(新河道掘削土砂)を積み上げ仮堤防の高さを従前通りに復元させ、その表面に麻袋一列を張りつけさせることとし(その所要時間としては二時間程度が見込まれた。なお復元するに必要な土砂量は計算上二〇〇立方メートル強程度になる)、その旨の指示を同社になした。

(三)  下高関地区について

八・二八洪水当時における下高関地区災害復旧助成事業の進捗状況、同地区新堤防の現況については、すでに第六・三・(三)において述べたとおりである。

三  本件三地区の破堤について

八・二八洪水時、向中条地区においては同月二九日午前一時過ぎに七・一七洪水後築造した堤防(=仮堤防)が破堤し、西名柄地区においても同様七・一七洪水後築造した堤防(=仮堤防)が同日午前一時半ころ破堤し、下高関地区においても七・一七洪水後築造した新堤防が同日午前四時ころ破堤したことは当事者間に争いがなく、各地区破堤の経過、原因及び破堤時の水位については、次のとおりである。

四  向中条地区破堤の経過、原因、破堤時の水位について

(一)  〈証拠省略〉、鑑定人三木五三郎の鑑定結果(以下単に三木鑑定という)、吉川鑑定(両鑑定の証拠価値については後述)並びに第七記載の事実及び前記一記載の事実によれば、向中条地区破堤の経過、原因、破堤時の水位は次のとおりであると認められ、この認定に反する〈証拠省略〉は措信できず、他に右認定を覆えすに足る証拠はない。

(1) 八月二八日午前

早朝より降り始めた雨により、同日午前中から県新発田土木事務所管内の小河川は増水し始め、加治川においても徐々に増水していた。雨はその後も間断なく降り続いた。そこで同事務所は、管内全般に職員を派遣し、巡視並びに水防活動を開始した。

(2) 同日午後二時頃

この頃より、雨足は一段と強まつてきた。また、その頃、加治川は岡田測水所で水位二・三メートルを示し、さらに、同日二時半頃には警戒水位二・六メートルに達した。そこで同事務所は平常業務を停止し、全員水防体制についた。

(3) 同日午後三時頃

その頃、加治川水防事務組合の向中条地区を含む水防区の支部長である加治川村長は同水防区における水防体制についての取り決め事項に従つて、同村消防団員の全員に出動の命令を下した。

(4) 同日午後三時半頃

その頃、向中条地区仮堤防に加治川村消防団やその他地元民等が二〇〇名位集合した。

この頃、七・一七洪水時をはるかに上回る豪雨となつており、これと早朝からの降雨とで、同仮堤防の裏法尻は若干柔かくなつていたが、足をとられるような状態はなく、また裏法面の崩落や裏法尻からの河水の湧出等の発生はなく、堤体には何らの異常もなかつた。

同仮堤防天端に集つた同消防団の副団長と各分団長は水防活動の作業方法について現地で協議を行つた。

その協議の結果、水位が上昇しているので、仮堤防天端に溢水防止のための土のう積みを行うことが決定され、その後土のう積み作業が開始された。

この作業は、当時集合していた同消防団員を二手に分けて、上下流の在来堤防と仮堤防の接合部より中央部に向つて進められた。

また、その頃、新発田土木事務所より派遣された県職員が現地に到着し、水防活動(情報の伝達、情報の収集等)を開始した。

(5) 同日午後五時頃

増え続けていた水位は、この頃、仮堤防天端より〇・五メートル下り程度にまで達したと思われる。このため消防団は、天端の土のう積み作業とは別に、河水による洗掘と河水の浸透を防ぐため堤防表法面に天端から蛇籠にかけてビニールシートを張る作業を開始した。この作業は河水が巻く状態となる仮堤防中央部付近(中野長助宅付近)から始められたが、水流等に阻害され、間もなく中止されるに至つた。

また、一方、この頃、下流部仮堤防で裏法面の法尻付近に崩落が発生したため、同消防団は土のう積み作業を中断し、この崩落防止の作業準備にとりかかつた。

この裏法面の法尻付近の崩落は、この付近が水の飽和状態となつたため発生したものであるが、この付近が飽和状態となつたのは、早朝からの降雨に加えて午後一時から同五時ころまでの間の恐らくは一〇〇ミリメートルを超えたであろう豪雨のための堤防法面より浸透した降雨がこの付近に集中したことがその主たる原因と思われるが、これに加えて前面の河川水位の上昇により堤体内に浸透した河水が裏法尻付近までかなりの量到達していたというような事情があつたか否かは不明である。

(6) 同日午後六時頃

この頃から、下流部仮堤防の裏法尻の崩れ落ちる箇所に崩落防止のための土のう積みが行われた。また、この頃、県知事が出動を要請していた自衛隊員約一〇〇名も到着しこの作業に加わつた。

この頃の仮堤防の状態は裏法面に雨裂がある程度発生しており、そこから流れ落ちた士砂が法尻に堆積していた。裏法尻付近は水を含んで多少ぬかる状態が生じていたが、河水の湧出現象はなかつた。

(7) 同日午後六時半頃以降

その頃、中野長助宅付近の仮堤防裏法尻の法面が崩れ落ちてきたため、同箇所にも崩落防止の土のう積みが開始された。

その後、この法面の崩落現象はこれら土のう積み箇所の上下流に徐々に拡大していつた。

この土のう積み作業は、裏法尻に杭を打ち込んで土のうの押えとし、そこから法面に沿つて土のうを積み上げていつたものである。しかし、依然として降り続く降雨のため裏法面土砂が流出しあるいは崩落するという現象は続いた。また裏法尻付近が水で軟弱化してゆくため、土のうの押え杭が傾く箇所もあつた。

(8) 同日午後一〇時前後頃

この頃より、幾分小康状態となつていた降雨が再び激しくなり、同仮堤防の法面は、さらに降雨を含んで軟らかさを増し、裏法面を登り降りするのに不自由をきたすようになつた。

また、既に各所に発生していた雨裂も大ききを増し、特に中野長助宅付近とその上流側の中野忠太宅作業場付近の雨裂の欠け込みが大きくなつた。そこで、その欠け込みを少しでも防止しようと法肩付近から裏法にかけてビニールシートを張る作業も行われ、さらに、そのビニールの上に土のうを積み上げてゆく作業が続けられた。

この頃、仮堤防前面の水位は一旦蛇籠が見える程度まで下つたが、その後再び上昇傾向となつた。

(9) 同日午後一一時頃

その頃中野長助宅付近で仮堤防裏法面のビニールシート張りの上に積み上げた土のう積み(このころには土のう積みは天端より一メートル下り位までいつていた)が、巾三、四メートル程度にわたつて裏小段付近まですべり落ちた。と同時に雨水で飽和状態となつていた裏法面の土砂が支えを失つて天端付近から裏小段まで滑り落ちた。

このため、一時破堤したとの誤報もあつたが、同箇所は、再び裏小段まで積み上げていた土のうを足場として、土のう積み作業が続けられた。

(10) 二九日午前〇時半頃

この頃には、水位は急激に上昇して、同仮堤防の天端近くまで達した。このため同消防団副団長は同消防団員に対し退避命令を出した。しかし、この後もなお一〇名程度の者が中野長助宅付近仮堤防天端と裏法面で溢水防止あるいは崩落防止のための土のう積み作業を続けた。

その間水位はさらに上昇して満水状態となり同箇所天端の数箇所から越波による溢水が生じ始めた。

(11) 同日午後一時頃

この頃、水位の急激な上昇に伴い、中野長助宅付近の仮堤防天端の溢水量も多くなつた。そして、同付近仮堤防天端と裏法面の土砂を急速に押し流し、遂に同仮堤防はこの付近から破堤するに至つた。

(二)  原告らの主張に対する判断

(1) 原告らは、二八日午後二時すぎまもなくより仮堤防裏法尻付近から河水が湧き出るように流出した旨主張しているところ、証人吉備津操は、「午後一時すぎころ仮堤防に昇り、一旦帰宅して所用を済ませ仮堤防に戻つた際、既に中野長助宅付近の裏法尻付近は、大分水があふれ出ていて、水が土砂を中から盛り上げるような状態であつた。」「午後九時頃には、中野忠太宅の作業小屋付近の裏法尻付近は既に砂まじりの水がもくもく出るような状態であつた。」「そのころ、中野長助宅付近、中野忠太宅作業小屋付近では裏法に積みあげた麻袋の上端付近から水が湧き出ていた。また積みあげた麻袋のすきまから水が吹き上げる箇所が相当あつた。」旨供述し、また証人加藤洋平は、「午後二時半頃、中野長助宅付近とそのやや下流部法尻付近は、下の方の土がじわじわ浮いてくる感じであつた。」旨供述しており、一見前記主張事実の存在を肯定しうるかの如くである。

しかし仮に原告ら主張のような事実があつたとすれば、水防に関心のある者ならば誰しも常識的に知つていると思われる「月の輪工法」が湧水に対処するため行われていると思われるのに、八・二八洪水時本件仮堤防裏法尻にかかる工法が施されたとの事実を認むべき証拠は全くないのみならず、加治川村消防団副団長である証人宮島正隆(同人は向中条地区出動の消防団の指揮者である)は、「午後三時半頃、私自身裏法面に漏水や法崩れなどがあるかどうか全部調べたが異常はなかつた。分団長に湧水を見つけたらすぐ報告するように指示していたが、全くそのような報告を受けたことはなかつた。」旨供述し、証人織田岩雄は、「午後六時ころ水防現場に着いたが、中野長助宅付近裏法尻には漏水の発生など全然判らなかつた。」旨供述していること、午後一〇時前後ころになつて仮堤防裏法面にビニールシートを張り、その上に土のうを積んでいつたという事実があるが、堤体内から水が湧き出しあるいは吹き出すような事態が発生していたとすれば、かかる透水性のないビニールシートを法面に張るというような水防工法がとられたとは思えないこと、現に証人織田岩雄は、「非常に雨が降り、雨で上から土砂が崩れ流れ落ちてくるのでビニールをかけその上に麻袋を積んだ。」旨供述していることなどに照らし、前記供述はなお信用性に疑問の余地を残し、従つて、前記供述をもつてしては原告ら主張事実を認めさせるに十分でないとしなければならない。

(2) また、原告らは、破堤時の水位は仮堤防天端より一メートル下位にあつた旨主張する。

しかし、証拠を検討するも、破堤時の水位が天端より一メートルも下位にあつたことを認めさせる証拠は何一つ存しない。

もつとも、原告中野長助は、その第一回本人尋問において、破堤時水位につき、「天端より三、四〇センチメートル位下つていた。」旨供述し、また証人中野殖は、「破堤すると同時に天端に上つたが、水は天端を越えていず、まだ天端までひざかぶ程度の余裕が十分あつた。」旨供述し、これら供述は、破堤時ころ溢水状態でなかつたという限度で、原告らの主張に符合している。

しかしながら、右供述のうち、原告中野長助の供述は、同じ破堤時水位についての同原告の第一回本人尋問における供述(「天端にしやがみこんで手を下げてその手がぬれるかどうかの程度であつた。」旨)と完全に矛盾しているうえ(天端より三、四〇センチメートル下位であれば、法肩から表法面に沿つて河水面まで六、七〇センチメートルの距離があり、腹這いになつても手は届かない)、同原告の二八日午後一一時頃の水位についての第一回本人尋問における供述(「天端より四〇センチ位下つていた。」旨)とも矛盾しているのであつて(午後一一時頃の水位が天端より四〇センチメートル位下位であり、破堤時水位が天端より三、四〇センチメートル下位であつたとすれば、午後一一時ころから破堤時ころまでの二時間位にわたつて水位に殆んど変動はなかつたということになるが、これは上流の増水状況からみて信じがたい)、到底不自然さを隠しえないといわなければならない(なお、仮に「天端にしやがみこんで手を下げてその手がぬれるかどうか程度であつた。」旨の供述を真実とすれば、破堤時水位は、おそらく天端より一〇センチメートル位下位ということとなり、当時相当の風と河水の流下それ自体によつて生じた波が最も打ち寄せていたと思われる中野長助宅付近仮堤防=仮堤防中央付近(原告中野長助は波の打ち寄せについて否定的供述をなしているが(第一回本人尋問)、措信できない)は越波による溢水状態が生じていたと考えてもおかしくはないということになる)。

しかのみならず、破堤時水位の供述としては、前記の外、証人宮島正隆の「破堤三〇分位前の水位は殆んど満水の状態であり、水位も急速に増している状況であつた。破堤寸前には、ビニールのおさえにした天端の麻袋の間から波が越していた状態で最初六尺よりちよつと狭い位であつた。水の量はそう急激に厚くならなかつたが、堤防を越したところの裏法が大きく崩れていくような状態だつた。そして水位が急激に増えてきているので越す量も増えた。」旨の供述、証人織田岩男の「破堤三〇分位前の水位は、天端より一五か二〇センチ位下りとなつており、その後、徐々に増えてきて、雨と風で吹雪のように降雨が水面をたたくような状態で天端すれすれのところまできた。破堤の状況としては、最初中野長助宅付近仮堤防天端の麻袋と麻袋の間から溢水したのが三、四箇所位見えた。それからそのうちの一箇所が自然と波が一番強くなつて越える水の量が増え、裏土を押し流した。」旨の供述、証人日向研一(自衛官)の「二九日午前〇時半ころ災害情報の収集と隊員指導の目的で向中条地区仮堤防に赴き、中野長助宅付近天端に昇つたところ、その付近に天端を越えて裏法の方に数条の流れがみられた。それは天端にあつた麻袋と麻袋の間から波がザアツと溢れ出るような状況で出ていた。そしてその越える量もだんだん多くなり、破堤は、そののり越えた流水が激しかつたところが中心になつて天端がザクツと落ちる感じで生じた。」旨の供述も存するのであつて、特に右各供述中証人日向研一の証言については、同人の同仮堤防に赴いた目的及び同人が本件訴訟当事者とは何ら利害関係を有しないことに照らしその信用性は高く評価しうることに鑑みると、前記証人中野殖及び原告中野長助の供述をもつてしては、到底原告ら主張を前記の限度においても認めさせるには不十分であるといわなければならない。

(三)  水位の変動状況の認定と吉川鑑定

(1) 吉川鑑定について

吉川鑑定人は、水文学的水理学的見地から八・二八洪水時の水位(八月二八日午後二時以降について)を鑑定しているが、その手法を略述すれば、次のとおりである。

すなわち、流出計算により、まず、姫田川合流点における合流量(これは向中条地区の流量でもある)を一時間毎に算出する。しかし、この流出計算により求めた合流量はかなり絶対誤差を含みうるのでこれを直ちに向中条地区水位に換算することはせず、右合流量(本川合流点上流流量プラス姫田川流量)と本川合流点上流流量を流量比に換えたうえ、岡田測水所実測水位を手掛かりとして、これに整合する右流量比に従つた合流量を試行錯誤的に(合流点水位H′0を仮定し、それを岡田測水所実測水位H1とで本川合流点上流流量Q1を求め、このQ1と右流量比により合流量Qを求め、このQより合流点水位H0を求め、このH′0とH0を比較し不一致であれば一致するまでH′0を変えて計算を繰り返えす)求め、右合流量と予め計算しておいた向中条地区の水位・流量曲線により同地区の水位を一〇センチメートル単位で推定する。

(2) その証拠価値について

右鑑定水位が実際に起つた向中条地区水位を完全に再現するものでなくある程度の概数値であることは吉川鑑定人自身自認するところであり、またその算定の経過をたどつてみても明らかである(流出計算による流量を流量比に変えたからといつて、流出計算上のすべての誤差が排除されたとはいえないこと、岡田測水所水位目視観測記録の誤差は僅少のものであるとはいえ、全体的に最大限一〇センチメートル程度低目の値の出ている可能性のあること、流量比と右実測水位を用いての合流量算定にあたつて、姫田川あるいは坂井川右岸から溢水や姫田川と本川とに囲まれた三角地帯への溢水とそれによる遊水効果が考慮外におかれていること、合流量を向中条地区水位に換算するにあたつて、同地区が湾曲部外延部にあることによる水位上昇が考慮されていないこと等の点を指摘できる)。

従つて、右鑑定水位によりある特定の時点におけるある特定の地点(向中条地区堤防の天端高が一様になつていても水位との関係で多少の高低差は免れない)の厳密に正確な水位を知ろうとしても不可能であり、これにより知ることのできるのは、あくまである時刻ころの概ねの水位である。

ところで、右鑑定水位の概数値としての精度であるが、これを知るため、目撃証人(証人日向研一、同織田岩雄、同官島正隆、同川口三喜夫(但し同証人は対岸やや上流の水位を目撃したものである)等)の供述等によりこれを検証してみると、非常に良い符合を示している。従つて、これによりみれば右鑑定水位は概数値としてかなり精度の高いものであるといつてよい。

そして、このことは、裏を返せば、右鑑定水位と良く符合している前記目撃証人の供述等((一)に認定した各時刻ころの水位はこの供述をもととしたものである)は右のごとく相当根拠のある学問的推定によつても裏付けられているものであるから、その信用性は高く、ほぼ実際の水位変動状況をあらわしているとみてよいということができる。

つまり、右鑑定水位は、右目撃証人等による(一)記載の水位を認定するときの有力な補強証拠としての意味をもつということができるのであつて、これが水位認定につき何ら証拠価値をもたないものであるとする原告らの批判は当らないというべきである。

(四)  破堤経過の認定と三木鑑定

(1) 三木鑑定について

三木鑑定人は、向中条地区築堤用土として用いた蓮潟の砂丘砂を用いて、右仮堤防の横断面の各辺長二分の一大の実験堤防を造り、三種の降雨条件(このうち二種は八・二八洪水時の降雨条件に近いもの)、二種の洪水波形(このうち一種は八・二八洪水波形に近いもの)を与え、これらを組合わせるなどして計四回の浸透実験を行い、この結果から、八・二八洪氷時における浸透状況を大要次のとおり推定している。

「八・二八洪水時における浸透状況としては、洪水による浸潤線が裏法尻まで達するのに要する時間は、水位が上昇し始めてから一〇ないし一五時間である。ただし、降雨の影響で裏法尻がそれより早く飽和状態となることはある。また浸潤線が裏法尻まで浸透しても、直ちに法尻から崩壊が始まるのではなく、さらに浸透が継続すると、それから二、三時間して徐々に崩壊が起るようになる。しかし、浸透水だけで小段の形がなくなる程度まで崩壊が進むにはさらに多大の時間を要する。本件仮堤防の破堤は、浸潤線が裏法尻に達して徐々に起つたものとは考えられず、堤頂を水が越流した時期に急速に生じたものと判断される。なお、浸潤線の到達時間の算定につきストロールの公式を用いるのは無意味である。」

ところで、当裁判所は同鑑定人の行つた右浸透実験の結果及びこれに基づく同鑑定人の推定意見につきその証拠価値を次のように判断する。

すなわち、同鑑定人の行つた実験の結果及びこれに基づく同鑑定人の意見は、これを余り絶対視すべきでないこと勿論であるが、少なくとも降雨、洪水により向中条地区仮堤防の堤体内に浸透した水の動きやこれが堤体に及ぼす影響の大まかな傾向を知るという限りでは有効かつ有益なものである。

そこで、当裁判所は、右をこのような意味における証拠として他証拠とともに(一)の事実認定の用に供したものである。

(2) 原告らの批判について

原告らは、三木鑑定人のなした右大型模型による浸透実験について、その実験条件が災害時の条件と一致しておらず、重要な差異が存する旨主張し、その証拠力を争つている。

たしかに、同鑑定人の行つた浸透実験は四回とも災害時の条件と完全に一致する実験条件のもとで行われたものではない(もともと、災害時の土質条件、降雨条件、洪水波形を完全に正確に知ること自体が不可能である)。従つて、右浸透実験は四回とも実際の八・二八洪水時に起つた破堤経過を完全に再現するものでないことは明らかである。

しかし、このことから直ちに右実験結果に何ら証拠価値がないとするのは飛躍である。

なぜなら実験条件と災害条件が異つても、これらの差異を超えた共通の傾向を実験から読みとることは一般に不可能でなく、これを不可能とするのは我々の日常経験に即しないからである。

もつとも、実験が災害時の条件とは似ても似つかない条件で行われたというなら別である。

しかし、本実験においては、四回の浸透実験中実際に近い降雨条件を与えて行われたものもあり、実際に近い洪水波形を与えて行われたものもあること、また土質条件についても原告らは災害時のそれと重要な差がある旨主張するけれども前述の共通の傾向を読みとりえない程度に喰い違いがあつたとは考えられないこと(少なくとも右浸透実験のうち一回はおそらく実際の仮堤防の土質条件にある程度近かつたのではないかと推定される)等に徴すると、本実験が右にのべた実験という名に価しないような場合に該当しないことは明らかである。

従つて、右実験の結果あるいはこれにもとづく同鑑定人の学識経験をふまえた意見を前叙のごとき観点からこれを(一)記載の事実認定に利用することは何ら差支えないというべきであり、原告らの主張は失当である。

五  西名柄地区破堤の経過、原因、破堤時の水位について

(一)  〈証拠省略〉並びに前記一ないし三認定の事実によれば、西名柄地区破堤の経過、原因、破堤時の水位は次のとおりであると認められ、この認定に反する〈証拠省略〉は措信できず、他に右認定を覆えすに足る証拠はない。

(1) 八月二八日午前一二時頃

同地区シヨートカツト工事を請負つていた株式会社加賀田組は、午前中からの雨で加治川が徐々に増水してきていたため施行中の作業を中止し、昼ころより河川敷内(旧西名柄部落及び仮堤防前面)にあつた重機資材類の引き上げを始め、午後三時前ころこれを完了した。

(2) 同日午後三時頃

加賀田組現場主任海老名正夫はこのころ県新発田土木事務所へ水位等を電話連絡し、爾後の指示をあおいだ。新発田土木事務所は、折り返し、切り下げ天端の復元の準備をすること、土木事務所職員泉技師を派遣したのでその指示に従うことを電話で伝えてきた。

そこで海老名正夫は直ちに麻袋を手配するとともにすぐそばで待期していた七、八台のトラツクに西名柄部落跡地に集積してある河床掘削土砂を仮堤防切り下げ箇所付近に運搬するよう指示した。

しかし、ダンプトラツクは右跡地付近までは行つたものの、そのころ非常な強雨によりすでに跡地が水浸しになり進入が不可能な状態となつていたため土取りをあきらめ引返した。そこで海老名正夫は右引返した七、八台のダンプトラツクにとりあえず他の適当な場所から切り下げ天端の盛り土及び麻袋用土を運ぶよう指示した。

(3) 同日午後三時半頃

この頃、新発田土木事務所より派遣された泉技師が現地に到着した。

この頃の水位は、スケールで測定したところ、仮堤防蛇籠より約一・〇メートル下りに達しており、同仮堤防の切り下げ天端まで約一・五メートル程度の余裕があつたが、なお水位は上昇していた。そこで、泉技師は、ただちに、加賀田組に対し、切り下げ箇所の復元に必要な大量の土砂の搬入を指示するとともに新河道流心部付近の仮堤防天端の切り下げ、並びに、名柄道路が交差する仮堤防・新堤防接合部の一メートル程度の高さの盛り土(同所は新堤防天端より二メートル程度低くまた仮堤防切り下げ天端より〇・五メートル程度低かつた)及び新堤防天端を横断する西名柄移転道路の交差部分の盛り土を命じ、四時すぎころより実施した。

なお、新河道流心部付近の仮堤防天端の切り下げ作業は、流水の一部をシヨートカツト部(旧西名柄部落)へ流すことにより向中条地区への水勢を軽減しようとして行つたものである。

また、道路との交差箇所の盛り土は溢水防止のために行つたものである。

(4) 同日午後五時頃

その頃、水位は新堤防下流で新堤防天端より一・七ないし一・八メートル下りにまで達した。

このため、シヨートカツト流心部付近の仮堤防天端の切り下げ作業は、作業ブルトーザーが危険な状態となつたので中止した。

また二箇所の道路交差箇所の盛り土作業はブルトーザーで新堤防天端を約一メートル削つてその土砂で行い、このころには終了した。

(5) 同日午後五時半頃

その頃、同仮堤防に集つた地元民二〇名程度と加賀田組職員及び作業員約三〇名で、同仮堤防天端切り下げ箇所の土のう積み作業が開始された。

この作業は、同仮堤防切り下げ天端の部分的に低い、水溜りのできているような箇所に行われた。これに使用された資材の麻袋は、加賀田組倉庫に備えてあつたものと地元民の持ち寄つたものを使用し、また詰土については、加賀田組が最初に手配したダンプトラツク七、八台が紫雲寺町の土取り場から搬入したものを使用した。

(6) 同日午後六時頃

この頃には、新発田土木事務所と加賀田組が手配した麻袋が相次いで到着しており、盛土及び詰土用の土砂(砂丘砂)も大量に搬入され始めた。この土砂は、加賀田組が西名柄地区にあつた配下のダンプトラツク約四五台を総動員し、二、三分間隔で現場に運搬したものである(延べ稼動トラツク数二六九台、土砂量計約一、三〇〇立方メートル)。

また、この頃から、出動命令が下つた新発田市各部落の消防団員が続々と現地に到着し始めた。そこで、同箇所の土のう積み作業は全般的に広げられ、さらに加賀田組は同仮堤防切り下げ箇所の照明設備を施し夜間の作業に備えた。

(7) 同日午後六時半頃

その頃、消防団の指揮者として新発田消防団長が、水防工法指導者として新発田土木事務所工務一課長が現地に到着した。

そこで、各分団長を集めて、土のう積み作業方法の会議が現地で行われた。その会議の結果、まず同仮堤防切り下げ箇所全区間にわたつて土のうを川に面して長手積みとした三段積みとすることが決定され、ただちに右作業が開始された。この作業は、この頃までに集合していた約二〇〇名の消防団員と地元民、加賀田組職員及び作業員によつて行われた。またこの作業の進捗を図るため、加賀田組のブルトーザー三台により詰土用土砂を堤防上に押し上げる作業が並行して行われた。

(8) 同日午後七時頃

この頃には、県が出動を要請していた自衛隊員約四〇名も現地に到着した。

そこで、再び、消防団長、工務一課長、自衛隊指揮官、各分団長が土のう積み作業方法の会議を行つた。その会議の結果、前記決定の土のう積みの規模を改めて、さらに、これを強化することとし、高さは六段積みとし、巾については、下段三列、上段二列の台形型断面とすることが決定された。

この作業は自衛隊、消防団を上、下流に分け、更に消防団も各分団毎に分担区域を決めて行つた。

なお、土のう積みの高さは、同仮堤防天端の切り下げ以前の高さ、できればこれ以上の高さに復元するという根拠で決定されたものである(土のう一個の高さは約一〇センチメートル程度)。

(9) 同日午後九時すぎ頃

この頃、同仮堤防切り下げ箇所の六段積みの土のう積み作業が完了した。これにより土のう部分は切り下げ前の仮堤防天端高とほぼ同高となつた(ただし、在来堤防との接合部付近、新堤防との接合部付近は切り下げ前の天端高より土のう積みの方が多少高く施工された)。

また、この頃の水位は、蛇籠が〇・三メートル程度出るまでに下つた。そこで消防団員と自衛隊員は、九時半ころ夕食のため警戒要員を残して引き上げた。

その後泉技師らは、加賀田組職員らに対し切り下げ天端の土のう積みの背後に盛土による裏腹付を実施するよう指示し、また、警戒要員として残つた消防団には土のう積みの隙間からの漏水を予防するための土のう積みをビニールシートで覆う作業を指導した。

この土のう積み背後の盛り土作業はブルトーザー三台で前述の砂丘砂を用いて行われた。

(10) 同日午後一〇時半頃

この頃、土のう積み背後の盛り土作業は、終了した。この盛り土は前面の土のう積み頭が多少出る程度の高さに施工したものである。

この頃より、再び降雨が激しくなり、切り下げ箇所天端の盛り土及び法面にブルトーザーの昇降と堤防の補強のために積んだ土砂が流され、雨裂が発生するようになつた。更に、上流の東北電力加治川ダムの洪水通過量が増加したとの連絡が入つた。また前面水位も小康状態から上昇傾向に変つた。そこで、再度、消防団と自衛隊の出動の要請が行われた。

(11) 同日午後一一時すぎころ

この頃までに再出動の消防団三〇名位が現地に到着した。そして消防団は、加賀田組職員らと土のう積みの背後の盛土上から裏法尻へかけての雨裂防止のビニールシート張りを切り下げ箇所中央部付近から開始した。なお、この頃までに、前述の土のう積みをビニールシートで覆う作業は切り下げ箇所中央部付近から上下流かなりの範囲まで完了した。

また、この頃、上昇した水位面との関係で土のう積み区間中央部付近の土のう積みの高さが上、下流部のそれよりも若干低くなつていたため消防団はこの付近より土のう積みの嵩上げ作業も開始した。

同日午後一一時半すぎころ、再出動した自衛隊約四〇名が現地に到着し、その後まもなくして右嵩上げ作業に加わつた。右嵩上げ作業に自衛隊が加わつたころの中央部付近の水位は土のう積みの上端より四〇センチメートル下りくらいであつた。そしてその後も水位は急上昇していつた。

(12) 二九日午前一時すぎ前後ころ

これより少し前位には、水位は満水に近い状態に達し、麻袋積み区間中央部付近ではビニールシートで覆われている部分より上の麻袋積み(前述のビニールシートによる麻袋積みの被覆作業は、麻袋積みの一部を取り除いてビニールシートを通し、再び麻袋をその上に乗せたうえ川側に出ているビニールシートの先端を麻袋積みの最下部へ足で押し込めるといつた方法により施工された。またその後の嵩上げ作業によりさらにこの上に麻袋の積まれた部分もある)の下部のすきまから漏水が発生し、麻袋積み背後の天端盛り土上から裏法尻付近にかけて雨裂防止のため張つたビニールシートの上を流れ落ちるようになつた。そして、その後、さらに水位は上昇して満水状態となり、麻袋積み区間中央部付近では麻袋と麻袋の鞍部から、さらには麻袋の上を乗り越えて溢水が始つた。このため自衛隊は危険を感じ指揮官の号令により一旦は退避し始めた。しかし、そのころ向中条地区が破堤したとの情報が入つたため自衛隊は消防団とともに再び水防活動を始めた。そして十分間位これが続けられた。

(13) 同日午前一時半頃

この頃の水位は、向中条地区が破堤したにもかかわらず上昇し続け、麻袋積み区間中央部付近の溢水巾は、三〇メートル位にも広がつて手の施しようのない状態となり、消防団及び自衛隊は溢水防止作業を放棄して退避した。そして同所付近は遂に越流により天端の土砂、土のうが押し流され、破堤するに至つた。

(二)  原告らの主張に対する判断

(1) 原告らは、西名柄地区仮堤防箇所に土のうを積んだものの未だ切り下げ前の天端高より七、八センチメートルも低かつた旨主張するが、右主張が採用しえないことは、前記二・(二)認定の事実に照らし明らかである。

なお、証人岩橋要次は、上流在来堤防の天端高と仮堤防切り下げ箇所の麻袋積みの高さとの差につき「一メートル位麻袋の方が低かつた」旨供述しているが、右供述は、右在来堤防天端にブルトーザーで押し上げられていた土のう詰土及びそれに接して上流側天端に積まれていた建設資材の沈石、杭等を堤体と誤認してなされたものと思われる。

(2) また原告らは、「二九日午前〇時頃には既に浸透水により裏法は水を含んで歩行ができず、堤脚部分では土砂が崩れて」おり、浸透破堤の機序が進んでいた旨主張するが、(一)掲記の証拠によれば、裏法に補強した土砂に雨裂が発生したことは認められるが、これを越え、裏法を歩行することができなかつたとか、堤体自体の崩落が裏法から進行していたとか、堤体内部を通つての河水の湧出等が発生したとかの事実は全証拠によるも認めることができない。

六  下高関地区破堤の経過、原因、破堤時の水位について

(一)  〈証拠省略〉並びに前記一認定の事実によれば、下高関地区破堤の経過、原因、破堤時の水位は次のとおりであると認められ、この認定に反する〈証拠省略〉は措信できず、他に右認定を覆えすに足る証拠はない。

(1) 二八日午後二時半頃

同日午後二時ころ、同地区付近の加治川水位は低水護岸を越えたり越えなかつたりという程度に達した。そこで、同日午後二時半ころ新発田市大友地区、下高関地区消防団に召集命令が下つた。そして集つた消防団四〇名位と地元民らが加治川右岸大友・下高関地区間の警戒に当つた。

(2) 同日午後三時頃

その頃、大新橋下流六、七〇メートルの右岸大友地区堤防裏法尻付近に漏水箇所が発見された。そこで同消防団はこれに対処するため月の輪工法等の水防活動を開始した。しかし、下高関地区堤防については、二九日午前〇時頃まで何ら危険は認められなかつた。

(3) 二九日午前〇時頃

この頃、水位は、下高関地区の七・一七洪水後破堤箇所に築造した新堤防前面のコンクリートブロツク張りの高水護岸上端からブロツク三、四枚下り程度に達した。

このため、コンクリートブロツク張り高水護岸下流端よりさらに下流二〇メートル位の区間の堤防(在来堤防)の表法面に欠け込みが生じ始めた。

そこで、そのころその付近で警戒に当つていた消防団員ら約二五名ないし三〇名はこの欠け込み部分に「木流し」の水防活動を開始した。

また、これに伴い、堤防上の照明が必要となつたため当時消防団員らとともに警戒に当つていた株式会社伊藤組職員倉島惣助は(同会社は、〈41〉)加助六の一L=三二〇メートル及び〈41〉)加助六の五L七三・五メートルの各工事を請負い施行したものであり、また八・二洪水当時上記施工区間より四〇〇メートルないし五〇〇メートル上流の右岸低水護岸工事を請負い施行中であつた。右倉島惣助は同会社の下高関地区工事の現場監督である)、同会社作業小屋(同会社作業小屋は、〈41〉)加助六の一L=三二〇メートルの施行区間の上流端(終点)裏法尻付近に設置されてあつた)にあつた投光器二器の堤防上への設置(コンクリートブロツク張り高水護岸下流端付近天端上に一器、〈41〉)加助六の一L=三二〇メートルの施工区間の中間付近天端上に一器)とその配線作業を始めた。

この照明設備の設置と配線は一時間以上かかつてようやく完了した。

この間も前記欠け込み部分の「木流し」作業は続けられていた。右部分の欠け込みは、同所が在来堤部分であり、また水流の直撃箇所からはやや下流に外れていたことからさほど急激には進行しなかつた。

その後倉島惣助も右「木流し」作業に加わつた。

(4) 同日午前三時すぎ頃

この頃、水位はコンクリートブロツク張り高水護岸の上端部をかなり越えた。この頃までに前記部分の欠け込みは天端三分の一位まで達した。

この頃、前記倉島惣助は、伊藤組作業小屋に水防資材を取りにゆくため堤防天端を上流へ引返した。

その途中、同人は、〈41〉)加助六の一L=三二〇メートルの施行区間の中間部付近(同所付近は河水が堤防を直撃する箇所でその頃かなり高い波を伴つた濁流が堤防表法面に激突していた。波は高いときで天端より法面の長さで三〇センチメートルないし五〇センチメートル下り(=垂線で天端より一〇数センチメートルから二〇数センチメートル下り)にまで達していた。なおこの付近堤防が七・一七洪水後築造した新堤防であることについては、第六・三・(三)参照)で巾二〇メートル位にわたり堤防表法面が天端付近まで洗掘されているのを発見した。

そこで、前記欠け込み部分で水防作業をしている消防団員らの退避路が失われる危険を感じた同人は、直ちに消防団員らに右の新たに欠け込みが生じた箇所付近まで引きあげるように連絡した。

その後右の新たに生じた欠け込みは、前記欠け込み部分から引きあげこの付近に集結していた消防団員らも手の施しようのないほど急速に進行し、一五分位の間に天端巾の半分位にまで達した。

そのためその付近天端上にいることが危険となり、消防団員らはそこからさらに一五〇メートル位上流の伊藤組作業小屋付近天端まで退避した。

(5) 同日午前四時頃

その後右中間部付近の欠け込みはさらに進行し、消防団員らが伊藤組作業小屋前付近天端上に退避して二〇分位の後、遂に欠け込みが天端の裏側にまで及び破堤に至つた。

(二)  原告らの主張に対する判断

原告らは、下高関地区の最初に破堤した箇所はコンクリートブロツク張りの下流端よりさらに二〇メートル下流までの区間である旨主張しているところ、右主張にそう証拠も一応存する(〈証拠省略〉)。

しかし、右主張が誤りであり到底採用の限りでないことは、八・二八洪水直後下高関地区破堤状況を撮影した写真であつてその信用性につき何ら疑いの存しない〈証拠省略〉を一見すれば、明白というべきである(これらの写真によれば、原告ら主張箇所の天端はある程度欠け込んではいるものの残存している。また右主張箇所上流にあるコンクリートブロツク張り高水護岸は下流端側の数十メートルが八・二八洪水後も流失を免れて残存している)。

第九河川管理瑕疵について

一  原告らの河川管理瑕疵の主張は、およそ考えうる殆んどすべての観点からなされており、きわめて多岐にわたつている。

しかし、これらの主張の中には、叙上の認定と前提を異にするものや叙上の認定から破堤との間に因果関係のないことが明白なものもあり、またさほど困難な判断を経ずに容易に因果関係の存しないことあるいは原告らが瑕疵と主張している事実自体が存しないことが明らかとなるものもあり、さらにはその主張自体から失当と考えられるものもある。

そこで、以下瑕疵の主張に対する判断の順序としては、まずこれらのものについて判断を加え、消去して的をしぼつたうえ、残余のものについて判断を加えることとする。

二  原告らの河川管理瑕疵の主張のうち、叙上認定と前提を異にする主張、叙上の認定から因果関係のないことが明白な主張、さほど困難な判断を経ずに因果関係の不存在あるいは原告らが瑕疵と主張する事実自体の不存在が明白となる主張

(一)  河川管理瑕疵その一(以下単に(瑕疵その一)という)・

一・(一)・(1)、(2)・(イ)ないし(ホ)の主張について

原告らは(瑕疵その一)において、向中条地区仮堤防の破堤原因として浸透破堤、溢水破堤の二つを措定し、右各破堤原因と関連づけて向中条地区仮堤防築堤上の瑕疵の主張を構成し、それぞれの主張の中でそれぞれの破堤原因と係りのある同仮堤防の高さ強さ上の問題点を種々指摘している。

右主張のうち、向中条地区仮堤防が浸透破堤したとの前提で構成した主張が(瑕疵その一)・一・(一)・(1)、(2)・(イ)ないし(ホ)であり、これが溢水破堤したとの前提で構成した主張が(瑕疵その一)・三・(一)・(1)、(二)である。

ところで、向中条地区仮堤防は溢水破堤したものであつて、浸透破堤したものでないこと前叙のとおりである。

従つて、同地区仮堤防の築堤上の瑕疵の主張についての判断は、同地区仮堤防が溢水破堤したとの前提で構成した主張について行えば足り、浸透破堤したとの前提で構成した主張について行う必要のないことは明らかである。

(瑕疵その一)・一・(一)・(1)、(2)・(イ)ないし(ホ)の主張は叙上の認定と前提を異にする主張として採用するを得ない。

(二)  (瑕疵その一)・二・(一)、(二)の主張について

原告らは、(瑕疵その一)において、西名柄地区仮堤防の築堤上及びその後の維持管理上の瑕疵についても、同地区仮堤防が切り下げ前天端高より下位の水位で破堤したとの前提のもとでこれに関連づけてその主張を行う一方((瑕疵その一)・二・(一)、(二))、同地区仮堤防が切り下げ前と同高に復元した土のう積み天端を溢水して破堤したとの前提のもとでもこれに即してその主張を構成しているが((瑕疵その一)・三・(一)・(2)、(二))、八・二八洪水時、同地区仮堤防が切り下げ前とほぼ同高(場所によつてはそれ以上)に復元した土のう積み天端を溢水して破堤したことは前叙のとおりであるから、同地区仮堤防の築堤上及びその後の維持管理上の瑕疵に関する判断は、(瑕疵その一)・三・(一)・(2)、(二)の主張に対する判断として行えば足りる。(瑕疵その一)・二・(一)、(二)の主張は叙上認定と前提を異にする主張として採用するを得ない。

(三)  (瑕疵その一)・三・(一)・(1)の主張について

原告らの右主張の趣旨は、向中条地区仮堤防は、その築堤材料、断面構造等に(瑕疵その一)・一・(一)・(1)、(2)・(イ)ないし(ホ)にのべたような欠陥があつて、洪水や降雨の浸透に対してきわめて弱く、従つて溢水に対処する十分な水防活動を保証するものでなかつたため、同地区仮堤防は溢水破堤したものであるとするのである。

ところで、原告らが、いかなる堤防をもつて洪水や降雨の浸透に対して弱くない堤防と考えているのかという点であるが、弁論の全趣旨によれば、向中条地区在来堤防(流失した旧堤防も含む)が右条件に合致するものであることは原告らとしてもこれを肯定しているものと思われる(原告らの最終準備書面七二頁以下及び原告らの援用する鑑定証人湯浅欽次の証言参照)。

そこで、ここでは、向中条地区仮堤防が「仮堤防」としての浸透に対する強さを備えていたか否か検討する前に、仮に同地区仮堤防が在来堤防と同等の強さをもつていたら果して八・二八洪水時溢水破堤を免れ得たか否か検討してみる。

七・一七洪水時、向中条地区堤防は、溢水深一〇センチメートル程度で溢水破堤したこと、また、当時溢水の巾もかなりの範囲にわたつていたことは前叙のとおりである。

これに対し、八・二八洪水時においては、前叙のとおり、波が天端を越流するという程度を多少上回つた程度ないしは満水より若干上位の水位程度で溢水破堤したものであり、また、その当時の溢水巾も、〈証拠省略〉によれば、おそらく一〇メートルないし二〇メートルを越えないものであつたであろうことは推認に難くない。

そして、これだけ比較すると、同地区仮堤防が在来堤防と同等の強さをもつていて、裏法尻の崩落などが起らず、従つて、その防止のための水防活動に人員をさかれず(なお、同仮堤防上・下流在来堤防が八・二八洪水時裏法尻から崩落があつた等の事実は認められない)、溢水防止のための水防活動に十分な人員をさくことができたとしたら、あるいは溢水破堤という事態を招かずに済んだのではないかというようにも見える。

しかし、一方、七・一七洪水時の破堤時刻は、午前一一時という日中であつて、水防活動にとつてはきわめて好都合な条件に恵まれていたにもかかわらず、同地区堤防は、結局溢水深約一〇センチメートルで溢水破堤していること、それに対し、八・二八洪水時においては、その破堤時刻は午前一時すぎころという深更であつて、水防活動の能率が大きく阻害される悪条件下にあつたこと、また、七・一七洪水時向中条地区堤防が破堤したころは、七・一七洪水が最高水位に至つたときであつたが、八・二八洪水時においては、同地区仮堤防が破堤したころは、なお水位急上昇期半ばにあり(なお、吉川鑑定によれば、第八・四・(三)・(2)にのべた算定条件のもとであるが、八月二九日午前一時から午前二時までの間に向中条地区水位は九〇センチメートル上昇し、午前二時の水位は天端より上一・〇五メートルに達したであろうと推定している)、同地区仮堤防が右破堤時刻に破堤しなかつたとすれば、それ以降も水位は急激に上昇して溢水深、溢水巾も前述の程度に止まらず、七・一七洪水時をも大巾に上回る程度になつたであろうと考えられること(なお、坂井川麓地区は、前述のとおり、二九日午前一時半ころ破堤しているが、この影響が向中条地区に現われ始めるのにはその間の距離からみて約三〇分位必要と考えられる。ちなみに、被告らが(瑕疵の不存在について)第九・六において吉川鑑定をもとに試算したとのべる天端より上〇・四五メートルないし〇・七五メートルという数値は、この影響の遅れを捨象して算定した数値である)、そして、これとともに、溢水防止のため麻袋積みをすべき範囲・高さもどんどん広く高くなつたと考えられること等に徴すれば、仮に、向中条地区仮堤防が在来堤防と同等の強さをもつており、従つて、溢水防止のための水防活動により一時的に溢水破堤を喰い止め得たとしても、結局は早晩溢水破堤を免れ得なかつたであろうことは容易に推認できる(少なくとも破堤を免れ得たとはいえない)。

以上のとおり、向中条地区仮堤防は原告らの主張するような条件に合つた浸透に対する強さをもつ堤防であつたとしても破堤を免れえなかつたもしくは免れ得たとはいえないのであるから、爾余の判断をするまでもなく、(瑕疵その一)・三・(一)・(1)の主張は因果関係なき主張として採用することができない。

(四)  (瑕疵その一)・三・(一)・(2)の主張について

西名柄地区仮堤防についても、(三)において述べたとほぼ同様の理由で、仮に同仮堤防が原告らの主張するような条件に合つた浸透に対する強さをもつ堤防であり、かつ堤防切り下げ問題がなかつたとしても、結局は溢水破堤を免れえなかつたであろうと考えられる(少なくとも免れえたとはいえない)から、原告らの(瑕疵その一)・三・(一)・(2)の主張は採用することができない。

(五)  (瑕疵その一)・四・(一)・(ハ)の主張について

七・一七洪水時の下高関地区破堤箇所下流端から下流側二〇メートルの間は、八・二八洪水当時コンクリートブロツク張りの高水護岸が施されていなかつたことは前叙のとおりである。

ところで、原告らは、(瑕疵その一)・四・(一)・(ハ)において右の区間にコンクリートブロツク張りの欠如していることを同地区の洗掘破堤の原因となつた同地区改良復旧工事上の瑕疵の一つとして主張している。

しかし、右の箇所は、八・二八洪水時前面を洗掘されたことはあるけれども、同所から破堤した事実はない。

同地区堤防は、前叙のとおり、〈41〉)加助六の一L=三二〇メートルの施行区間の中間付近の箇所から洗掘破堤したものである。

従つて、前記の区間にコンクリートブロツク張りが施されていなかつたことは同地区の洗掘破堤の直接的な原因を構成していないこと明らかである。

また、同地区破堤の端初となつた〈41〉)加助六の一L=三二〇メートルの中間付近の洗掘は、急激に起り(証人倉島惣助の証言によれば、この付近天端上は水防資材を運搬する者や巡視警戒に当る者が頻繁とまではいえなくとも、数分ないし一〇分間隔程度には往来していたと推認されるが、右箇所の洗掘は、同証人が同所を通りかかるまで発見されていない)、手の施しようのないほど急激に進行したものであつて、七・一七洪水時破堤箇所下流端より下流側二〇メートルの区間の洗掘があつたため時間的に相当前から始まつていた〈41〉)加助六の一L=三二〇メートルの中間付近の洗掘を発見するのが遅れ、ために同所からの洗掘破堤を招いたとか、七・一七洪水時破堤箇所下流端より下流側二〇メートルの区間の洗掘の進行を防止するための木流し作業に人手をとられたため、〈41〉)加助六の一L=三二〇メートルの中間付近の洗掘の進行防止のための木流し作業に人手をさけず、ために同所が洗掘破堤したとか、間接的な形で七・一七洪水時破堤箇所下流端より下流側二〇メートルの区間にコンクリートブロツク張りの高水護岸の施されていなかつたことが下高関地区の八・二八洪水時における洗掘破堤に寄与したとの関係も認めることができない。

してみると、右部分にコンクリートブロツク張りを施さなかつたことが同地区改良復旧工事上の瑕疵になるか否か検討するまでもなく(瑕疵その一)・四・(一)・(ハ)の主張は、下高関地区破堤に因果関係をもたない瑕疵の主張として採用するを得ないこと明らかである。

(六)  (瑕疵その一)・四・(一)・(ロ)の主張について

七・一七洪水による下高関地区破堤箇所に築造した新堤防の前面に、八・二八洪水当時根固工の設置されていなかつたことは前叙のとおりである。

原告らは、右根固工が設置されていなかつた点をもつて、同地区の洗掘破堤の原因となつた同地区改良復旧工事上の瑕疵の一つとして主張する。

ところで、八・二八洪水時、下高関地区堤防は〈41〉)加助六の一L=三二〇メートルの中間付近前面を洗掘されて破堤したものであるが、右洗掘が右付近堤防の前面どの部位から生じたものであるかについて検討する。

右中間付近堤防の洗掘の経過はこれまで述べてきたところによれば、次のとおりである。

八月二九日午前三時ころ、同地区の水位はコンクリートブロツク張りの高水護岸の上端をかなり越え、河水が波を伴つて、右中間付近の堤防前面のコンクリートブロツク張りを施した部分より上部の単に被覆土と張芝を施した余裕高部分に激突していた。右中間付近堤防の河水による洗掘は、このころ急に始まり、その後どんどん進行していつた。

また、破堤の翌日の下高関地区の状況は、下高関地区の区長である証人青木勇之助の供述によれば、次のとおりである。

「八月三〇日、下高関地区破堤箇所の様子を見に、破堤箇所下流側残存堤防まで舟でゆき、舟を降りて破堤箇所下流側から上流側まで徒歩で渡つたことがある、破堤箇所には、流失した堤防跡にコンクリートブロツク等が残存していたこれを伝つて歩くことができた。」

これらによれば、前記〈41〉)加助六の一L=三二〇メートルの中間付近堤防前面の洗掘は、堤脚部から始つたものではないことはもちろん(証人青木勇之助のいう残存していたコンクリートブロツクは計画河床高よりさらに一・二メートル根入れした低水護岸の流出を免れた残部と思われる(図二-二〇参照))、小段天端から始つたとも考えられないのであつて、前述の余裕高部分から始つたと認めるのが相当である。

なお、新堤防堤脚部に根固工のなかつたことが、前記余裕高部分の洗掘を何らかの形で助長したとの関係も認められない。

以上によれば、新堤防堤脚部に根固工のなかつたことが、下高関地区の洗掘破堤に直接的にも間接的にも寄与した事実は認められないから、原告らの(瑕疵その一)・四・(一)・(ロ)の主張は、破堤と因果関係のない瑕疵の主張として採用することができない。

(七)  (瑕疵その一)・四・(一)・(二)の主張について

堤防表小段天端は全面的にはコンクリートブロツクで被覆されていなかつたことは、当事者間に争いがない。しかし、〈41〉)加助六の一L=三二〇メートルの中間付近は、余裕高部分から洗掘が始つたもので小段天端から始つたものでないこと(六)において述べたとおりであり、また、小段天端をコンクリートブロツク等で被覆しなかつたことが余裕高部分の洗掘を助長したという事情も認められないから、(瑕疵その一)・四・(一)・(二)の主張も因果関係をもたない瑕疵の主張として採用することができない。

(八)  (瑕疵その一)・四・(一)・(ホ)の主張について

右主張は、厳密には、次の二つの主張に分けられる。

(1) 下高関地区堤防への水勢加圧を減ずるために左岸出州を掘削消去し、河水がより屈曲せず、直下に流下しやすいよう河床工事をなすべきなのにこれをなさなかつた点を同地区改良復旧工事上の瑕疵とする主張

(2) 右出州中にコンクリートブロツクの低水護岸工事を施したためその影響で右岸下高関地区堤防に当る水勢が前より強くなり安全性が危くなつた点を同地区改良復旧工事上の瑕疵とする主張

ここでは、前者の主張についての判断は留保し、後者についてのみ判断する。

下高関地区対岸から大きく張り出している出州中に七・一七洪水後同地区改良工事の一環として、〈41〉)加助六の六L=四三九メートルの低水護岸工事を行い、右施行区間にコンクリートブロツク張りの低水護岸を施したこと前叙のとおりであるが、原告らのいう低水護岸工事とはこれを指すものである。

そこで、右低水護岸を設置したことにより、右岸下高関地区堤防の完全性が危くなつたか否か検討するに、記録を精査するも、これを肯定するに足る証拠は何ら存在しないばかりか、むしろ、この点に関する主要な判断資料である吉川鑑定(鑑定事項(一))及び鑑定証人吉川秀夫の供述は、右低水護岸の設置は、その前面出州を導流でフラツシユし、洪水時における右岸下高関地区堤防への加圧の減殺に役立ち得たとしているのである(もつとも、洪水時においては、水位は低水護岸よりはるかに高くなること、また現に八・二八洪水時においても七・一七洪水時と同様右岸に洗掘の生じていることからみて、右の減殺効果がさほど大きいものであつたとは考えられない)。

以上によれば、(瑕疵その一)・四・(一)・(ホ)に含まれる前述の二つの主張のうち後者のものについては、下高関地区破堤とは因果関係のない瑕疵の主張として採用することができない。

(九)  (瑕疵その一)・四・(一)・(ト)の主張について

原告らは、下高関地区の計画高水流量から計画高水位を割り出す作業に過誤があり、そのため同地区に築造した新堤防は計画高水位内に計画高水流量を収めきれない設計と施行になつた旨主張する。

下高関地区における災害復旧助成事業は、二箇所のダム設置によるカツト量を除いた残量である河道計画高水流量毎秒一、一四〇立方メートルが安全に流下するよう堤防の強化、河床の掘削その他の工事を行うものであつたこと、同地区の計画高水位は新堤防天端より一・二メートル下りに決められたことは前叙のとおりである。

ところで、計画高水位は、計画された河巾拡大、河床掘削等がすべて施工され、完成断面になつている河道に計画高水流量を流下させた場合に示すであろう計画上の水位である。

そこで、下高関地区完成断面において同地区新堤防前面河道に前記河道計画高水流量を流下させた場合、県土木部の定めた計画高水位内に右流量をおさめ切れなかつたか否かにつき検討するに、原告らのいう吉川鑑定水位は、河床掘削未実施の河床深を前提として計算したものであるが、これによつても、毎秒一、一〇〇立方メートルを流下させた場合基点五四(基点五四は、〈証拠省略〉によれば、七・一七洪水後破堤箇所に築造した新堤防上にあることが認められる。なお、右各書証によれば、基点五五は、〈41〉)加助六の一=三二〇メートルの上流端(終点)の堤防天端上にあると認められるところ同所堤防が、破堤箇所より上流の在来堤防であることは、前に述べたとおりである)における水位は新堤防天端より一・二五メートル下りとされていること(但し、湾曲外延部による水位上昇分は考慮されていない)、県土木部の計画によると、おそらく平均的には一、二メートルの河床掘削が考慮されていたと思われること(図二-一八〈省略〉上から第三図、図二-二〇参照)、また〈証拠省略〉によれば、右河床掘削においては従前よりもさらに河床勾配をつけるよう配慮されていたと認められること(その結果流速が早くなり同一の流量でも低い水位を示すこととなる)に照らすと、一方において、前記災害復旧助成事業においては、新堤防の対岸堤防は従前よりかなり前面(河道側)に張り出させる計画になつていたこと(図二-一八〈省略〉上から第三図、図二-二〇参照)を考慮しても、直ちに下高関地区完成断面において同地区新堤防前面河道に前記河道計画高水流量を流下させた場合、県土木部の定めた計画高水位内に右流量をおさめきれなかつたと認めることはできない。

従つて、原告らの(瑕疵その一)・四・(一)・(ト)の主張は瑕疵として主張する事実自体の存在が認められないのであるから、これを採用することのできないこと明らかである。

(一〇)  河川管理瑕疵その二(以下単に(瑕疵その二)という)・三の主張について

七・一七洪水当時、新潟県知事は、加治川につき河川法一六条一項にいう「工事実施基本計画」を定めていなかつたことは当事者間に争いがない。

原告らは、これを定めておかなかつたこと自体を河川管理瑕疵として主張する。

しかし、〈証拠省略〉及び弁論の全趣旨によれば、新潟県知事は、加治川に関し、「工事実施基本計画」ではないが、昭和二七年計画高水流量毎秒二、〇〇〇立方メートルの「改修全体計画」を作成したこと(ちなみに、「工事実施基本計画」作成が義務づけられたのは現行河川法が施行された昭和四〇年四月一日以降であり、それ以前は「改修全体計画」の作成が行政指導されていた)、それ以降、県知事は、右「改修全体計画」を斟酌して毎年の年度実施設計を作成し、「中小河川改良費国庫補助並びに工事施工について」(昭和二七年五月七日発河第一〇号建設次官通達)に基づき建設大臣の認可を受け、河川改修事業を実施してきたこと、また七・一七水害後においても、新潟県知事は直ちに基本高水流量毎秒三、〇〇〇立方メートル(うちダムカツト毎秒六〇〇立方メートル)の改修全体計画を作成し(その一部である災害復旧助成事業全体計画については建設大臣の認可を受けた)、これを斟酌して、同年度及び翌年度の年度実施設計を作成し、建設大臣の認可を受けてその河川改修事業を実施してきたこと、以上の加治川の「改修全体計画」には、河川の適正な利用及び流水の正常な機能の維持に関する事項以外の事項すなわち災害の発生の防止又は軽減に関する事項については、「工事実施基本計画」に盛り込むべきものがすべて盛り込まれていたことがそれぞれ認められ、以上によれば、加治川の治水事業の実施に対する関係においては、「工事実施基本計画」はなくとも、これに替るべき運用上の措置が講じられていたと認められるから、原告らの(瑕疵その二)・三の主張は採用することはできない。

(一一)  河川管理瑕疵その三(以下単に(瑕疵その三)という)・一の主張について

昭和四〇年四月一日施行された現行河川法は、新たに河川管理施設等の構造の技術的基準は政令で定める旨の規定を設けたが(一三条二項)、その後右政令が制定されていないことは当事者間に争いがない。

ところで、原告らは、右政令の未制定自体を加治川の河川管理瑕疵として主張している。

しかし、右政令は、全国一、二級河川の全てに適用が考えられているものであるから、それが技術的基準に関するものであつて、法の趣旨からすればできるだけ数字的明確性をもつものとして制定されることが要請されていると考えられるにしろ、根本的には抽象性を免れえないものであり、従つて、右政令が制定されさえすれば、おのずから、全国各河川の各地区の各河川管理施設等の工法が定まるという関係はなく、これが一つの指針とはなりえても、最終的には各河川管理者がその知識経験等にもとづき、各河川各地区の地形状況等を考慮してそれにふさわしい工法を自主的に検討採択しなければならないこと、のみならず、前述のとおり新法施行当時、河川管理施設等の技術的基準を定めた政令はなかつたけれども、〈証拠省略〉によれば、建設省の内規的なものとして河川管理施設の技術基準を定めた「河川工作物設置基準(案)」が存し、当時これが右政令に替るものとして用いられていたこと、現在の河川工事の技術は、戦前戦後の研究経験を集積して発展し、先輩から後輩に直接または技術図書文献等により受継されてきたものであるが、右「河川工作物設置基準(案)」はこれらの成果を集大成したものであること、新法施行以来、建設省は、右政令を「河川管理施設等構造令」として制定すべく、右「河川工作物設置基準(案)」を土台として鋭意種々の学問的研究調査実務的な検討を重ねているが、もし新法施行当時において仮に右政令を制定したとすれば(もつとも、右政令は河川管理施設以外の工作物も対象として含むこととなつているため、右工作物を主管する関係省庁との調整が必要であり、これを経ていなかつた当時において建設省限りの判断で右政令を制定することはできなかつたものであるが)、当時の学間的研究調査実務的検討の進展段階からみて右政令において河川管理施設の技術的基準として規定されたであろう内容は、結局「河川工作物設置基準(案)」に規定されている内容とほぼ同程度のものになつたであろうことが認められることに照らせば、現行河川法一三条二項に定める政令が存しなかつたことが本件三地区の破堤と因果関係のある瑕疵であるとみるのは無理であり、従つて、原告らの(瑕疵その三)・一の主張は採用することができない。

三  それ自体失当と考えられる主張について

(一)  (瑕疵その三)・二の主張について

原告らは、負担法二条二項は、災害が起きた場合原型復旧という方針を採用しており、その結果「災害が起きても「原型復旧」に留るから従前より強い安全な堤防が作られることは不可能」であり、「本件三地区堤防の八・二八洪水による破堤も右のような(国の河川管理に対する)基本方針の招いた結果」であり、右の「「原型復旧」という管理方針自体」が加治川の管理瑕疵であるとするのである。

しかし、負担法の定める災害復旧が「原型復旧」のみでないことは同法二条三項によつても明らかである。

また仮に、負担法が「原型復旧」のみという方針を定めていたとして、そのこと自体が瑕疵であるとしても、それは立法行為の瑕疵として論ずるのが相当であり、河川管理瑕疵の範ちゆう内で論ずるのは相当でないと解せられる。

なお、原告らは、「現在における河川管理は本件河川も含めて端的にいえば、災害が起きないうちは堤防管理はなされていず、一旦災害がおきてはじめて「管理」行為が行われる実態にある」とも主張するが、かかる管理の不徹底は当該河川について具体的に指摘すべきものであり、全河川を含めた管理の不徹底の一般的傾向についての主張は、事情としての主張以上の意味をもつものとして扱うことはできないというべきである。

また、原告らは、「しかも、この「原型復旧」主義も……(中略)……ゆるく運用されているのである」旨主張しているが、その趣旨は不明である。

以上によれば、(瑕疵その三)・二の主張は、それ自体失当の主張として採用することができない。

(二)  (瑕疵その三)・三の主張について

原告らの右主張のうち、「特に一以下の主張の趣旨は不明であるが、それはさておき、原告らは右主張において、災害復旧予算の年度割主義自体を加治川の河川管理瑕疵として捉えている。

しかし、予算措置を講ずるか否かは行政庁の決定するものでなく、立法機関たる国会が決定するものである。つまり、右の予算措置は営造物を管理する行政庁のその管理作用の範囲内に入るものではない。

従つて、予算措置に関する瑕疵をそれ自体としてとりあげる場合は、立法行為の瑕疵として論ずるのが相当であつて、河川管理の瑕疵としてみるのは相当でないと解される。この点は、国家賠償法三条が「管理」と「費用負担」を別概念としてとらえていることからも肯定されると考えられる。原告らの(瑕疵その三)・三の主張はそれ自体失当である。

(三)  (瑕疵その二)・二の主張について

原告らは、右において、本件三地区は破堤の常習箇所であり、危険箇所であつたのであるから、既に七・一七洪水前において他地区より優先して河川改修工事を行つておくべきであつた旨主張する。

しかし、河川には相対的に危険な箇所が必ず存在し、一定限度以上の洪水のある場合そこから破堤するという可能性が高いことになるけれども(そこが過去に破堤した箇所である場合もある)、そのことから、直ちに、当該地区に改修工事が行わるべきであつたということはできない。

従つて、かかる主張を行う場合、優先して改修工事を行うべきであつたか否か主張するよりも前に、まずもつて、当該地区に河川改修工事が行われるべきであつたゆえんを具体的事実にもとづいて主張する必要があり、そうでない限り、瑕疵の主張としては主張要件を尽していない具体性に欠ける主張として排斥を免れない。

しかるに、原告らの(瑕疵その二)・二の主張をみると、原告らは単に本件三地区について破堤常習箇所ないし危険箇所であつたから河川改修工事を優先して行うべきであつたと漠然と主張するのみで右の点についての主張を全くなしていない。してみると、原告らの右主張は、他の瑕疵の主張に対する事情の主張としては了解可能であつても、それ自体を独立して瑕疵の主張としてみることはできないといわねばならない。

四  原告らの以上の主張は、以上のべた理由によりいずれも採用できないものである。

そこで残る瑕疵の主張は、次のとおりである(なお、(瑕疵その一)・一・(二)、四・(二)、(三)、六の主張は、瑕疵の主張の補強として主張されているものである)。

(瑕疵その一)・三・(二)

同    ・四・(一)・(イ)

同    ・四・(一)・(ホ)のうち前述の前者の主張

同    ・四・(一)・(ヘ)

同    ・五

(瑕疵その二)・一

(瑕疵その一)・三・(二)、(瑕疵その二)・一の主張は向中条、西名柄地区破堤に関する瑕疵の主張であり、(瑕疵その一)・四・(一)・(イ)、(ホ)のうち前述の前者の主張、(ヘ)、五の主張は下高関地区破堤に関する瑕疵の主張である。

ところで、右主張のうち、(瑕疵その一)・四・(一)・(ホ)のうち前述の前者の主張、(ヘ)、五の主張については、後述のとおり同じく下高関地区破堤に関する瑕疵の主張である(瑕疵その一)四・(一)・(イ)の主張を当裁判所は採用するから、その判断の要ないものである。

従つて、以下においては、(瑕疵その一)・三・(二)、四・(一)・(イ)、(瑕疵その二)・一の主張についてのみ判断すれば足りる。

五  そこで、以下六において(瑕疵その一)・三・(二)、七において(瑕疵その二)・一、八において(瑕疵その一)・四・(一)・(イ)の順序で順次判断を加えるが、これらの判断に立入る前にこれらの判断に必要な限度で河川管理瑕疵の一般的問題につき若干の検討を加えておく。

(一)  国は、河川について、洪水等による災害の発生を防止するため万全の措置を講じ、もつて、国民の生命、身体、財産を保護すべき政治的責務を負つている(河川法一条、災害対策基本法一条、三条等参照)。しかし、このことは、河川について、法律上も絶対的安全確保(=結果防止)義務を負つていることを意味しないし、また、一方、法律上いかなる安全確保義務も負つていないことを意味しない。

この点につき、敷延する。

(二)  道路は、法律上ほとんど絶対的といつてよい安全確保義務が課されているといわれるが、右見解は次の理由により肯認しうる。

道路は、いわゆる人工公物であつて、その開通自体人為の所産である。従つて、道路を開通したことにより発生する事故については、国等の行政主体は一般的に右事故の発生を防止し保証すべき立場にあるというべきである。また、国等の行政主体は民事責任を回避しようと思えば危険のある道路を供用廃止することも可能であり、廃止しないまでも危険の急迫時に一時閉鎖することも可能であるが、これをなさずになお一般通行の用に供する以上、事故に対する民事責任の負担を忍受したものとみられてもやむを得ない。

(三)  河川は、公共用物という点では、道路と同じ範ちゆうに入る。しかし、河川は、道路とその性質において著しい差があり、そのため河川についての法律上の安全確保義務については道路の場合と同断にはできない。その理由は次のとおりである。

河川は、いわゆる自然公物であつて、もともと危険が内在しているが故に、国はこれを管理し改良工事等の治水工事を行つてその安全性を高めてゆくべき政治的責務を負つているのである。この点設置管理するが故に危険のある道路ときわめて対照的であつて、この性質の差異を無視し河川についても道路同様法律上絶対的安全確保義務を課するのは早計であり、相当でないというべきである(もつとも、国の治水事業が完成の域に達していると認められるならば河川について法律上も絶対的安全確保義務を認めてよいと思われる。しかし、現在の国の治水事業の現状は未だこれには程遠い段階にある。すなわち、日本における治水事業はこれが本格的に始まつてから未だ日が浅く(直轄河川については明治二九年以来、中小河川については昭和六、七年以来であり、その間戦争による空白期間もある)、そのため、中小河川はもとより直轄河川についても完全治水の域に達したものはなく、中小河川についてはそのうち五〇パーセントが昭和六〇年度にようやく五〇年間に一回の割合の洪水に対処しうる安全性を具備するであろうと考えられているにすぎず(〈証拠省略〉)、現状においては、整備状況は千差万別であるが、中小河川のうち多くのものが右以下の安全度しか有していない)。また、道路の場合には、道路の廃止、一時閉鎖等が可能であるから、これによつて事故を皆無にすることが可能であるが、河川にはこのような方法は存しない。従つて河川においては、水害を皆無にするためには、長大な堤防を構築する等の治水工事を行う外ないが、これには膨大な費用と時間と人員とが必要であり、到底一朝一夕では達成不可能である。つまり、比較的容易な危険回避手段の存在は法律上絶対的安全確保義務を認める一根拠となるが、道路と異なり河川にはこのような方法が存しないのである。

(四)  ところで、一般に政治的責務と法律上の義務との関係については次のように説かれている。この見解は、河川の法律上の安全確保義務の限界を見極める上で非常に有効である。

政治的責務は、国が国民全体に対し負うべき抽象的義務ないし責任であるから、政治的責務を負つていることは直ちに個々の国民に対し法律上の義務を負つていることを意味しない。しかし、国が政治的責務に著しく違反し、全法律秩序の見地(公序良俗、条理ないし健全な社会通念)からみて国家賠償責任を負わせるのが正義公平に合致し相当であると考えられるような場合においては、政治的責務は法律上の義務に転化する。換言すれば、健全な社会通念等に照らし、個々の国民が国に対し、その作為または不作為を期待し、信頼しうる事情が存するときには政治的責務は法律上の責務となるけれども、そうでない限り法律上の義務とはならない。

しかして、かかる見解による限り、河川について要請される法律上の安全確保義務の範囲程度は、河川が前述のような特殊性を有していることに徴すると、道路の場合と異なり、かなり狭いものとならざるを得ないと考えられる。

(五)  道路と河川の安全確保義務の要請度の差異は、それぞれに国家賠償法二条を適用する場合の適用方法の差異となつて現われる。

国家賠償法二条にいう道路、河川その他公の営造物の「設置又は管理の瑕疵」とは、管理又は設置という営為が違法であること、換言すれば、違法要素としての安全確保義務違反たる設置又は管理行為(作為、不作為を含む)であることをいうものと解される。

ところで、道路の場合においては、道路に「瑕疵」(=具備すべき安全性の欠如)があれば、道路の「設置又は管理の瑕疵」のあることが推定され、違法性阻却事由としての特別の事情が立証されれば、「設置又は管理の瑕疵」が否定されるという道程を経て、国家賠償法二条の責任が論定される。つまり、道路においては、絶対に近い安全確保義務が要請されているが故に安全確保義務の範囲程度を特に論じなくとも道路の「瑕疵」は認識でき(営造物の「瑕疵」は、社会通念上あるべき安全性を欠いている状態をいうものであるから、その有無は本来的には安全確保義務の範囲程度に大きく規定されるものである)、また、これが認識でされば、道路に要請される安全確保義務が絶対に近いものであるだけにこれを安全確保義務違反としての設置管理行為の徴憑として扱うことができるという関係があるため、前述のような方法による責任の論定が行われるわけである。

これに対し、河川の場合においては、右のような方法は一般には妥当せず、右のような方法が妥当するのは次のような特殊な適用場面においてのみである。

完成した堤防等の治水施設が設計外力(設計上の外力)に見合う抵抗力を具有していなかつたため、設計外力を下回る破壊力で破壊され災害の生じたとき、例えば、完成した堤防が計画高水位、計画高水流量に見合う断面構造をもつていなかつたためそれ以下の水位、流量で破堤したような場合である(但し、工事計画において、堤防工事だけでなく、河床掘削、河巾拡大等も計画されたときは、堤防が完成していても河道が完成断面になつていなければ右の範ちゆうに入らず、次にのべるその余の範ちゆうに入る)。

治水施設を設けるか否か、設けるとした場合いかなる程度の設計外力を措定して設計するかは一般的には政治的責務に属する。しかし当該治水施設を作る以上、手落ち手抜きは許容されず、設計外力に見合う抵抗力を有する治水施設が作られねばならないと思われるし、またこのような効用をその後も維持確保すべきことは法の要求するところであると考える。つまり、完成した治水施設については設計外力の範囲内の外力に対してはほぼ絶対的にその安全を確保しなければならない義務があると考えられるのであつて、この限りにおいては、道路と同様に解することができるから、このような適用場面に関する限り、道路の場合と同様の方法を採用することが可能であると考えられるのである。

しかし、その余の場合、たとえば、設計外力内の外力では安全な完成した堤防等の治水施設がこれを上回わる外力によつて破壊され災害の生じた場合、改修計画実施途中あるいは未実施の段階において現に存する抵抗力を上回わる洪水に遭遇して堤防等が破壊され災害の生じた場合において河川管理瑕疵を問題とするときにおいては(原告らの前記三つの主張はこの場合に該当する)、右のような手法を用いて国家賠償法二条の責任の有無を導くことは迂遠でもあり、また明快でもないと考えられる。その理由は次のとおりである。

右のその余としてのべた事例を総称するとすれば、要するに、当該河川の現在の治水機能ないし治水能力の範囲外で災害の生じたときの河川管理瑕疵の問題である(これに対し、前述の例は、右の範囲内で災害の生じたときの河川管理瑕疵の問題である)。

ところで、右の例において、前述の方法を適用するとすれば、まず物の「瑕疵」の有無を確定しなければならない。しかし、右のような例において、たとえば、堤防が当該洪水に対処しうる抵抗力を有していなかつたからといつて、我々はそれを直ちに「瑕疵」ある堤防とはいわない。また単純な社会通念によつては、その「瑕疵」の有無を決しがたい。我々が右の例においてそれを「瑕疵」ある堤防と考えるのは、当該洪水に対処しうる程度の堤防を築堤することが、当該河川の安全確保義務の範囲程度の限界内に入つていたことがおおよそ肯定しうるとき、換言すれば、そのような堤防を築堤していなかつたことが、安全確保義務違背の河川管理であることがおおよそ肯定しうるときにおいてである。つまり右のような例においては、もともと絶対的に近い安全確保義務が認められている場合であるとは到底考えられないから、物の「瑕疵」を確定するにあたつて、国の安全確保義務の範囲程度あるいはその違背を大きく問題とせざるをえないのである。

なお、仮に、堤防が当該洪水に対処しうる抵抗力を有していなかつたことをもつて堤防の「瑕疵」と扱うことにして、堤防の「瑕疵」の有無の判断をする際に右のとおり必要となる安全確保義務の範囲程度あるいはその義務違背の論議を当面さけたとしても、最終的にはこの問題を回避できない。なぜなら、今度は、堤防に「瑕疵」あることが確定されても、右「瑕疵」は何ら安全確保義務違背を推測させるものでなくなるから、堤防の「瑕疵」とは別に安全確保義務の範囲程度、その違背の有無を検討しなければならないことになるからである。

先のアプローチの仕方は、国家賠償法二条の「設置又は管理の瑕疵」を直接論せず、営造物の「瑕疵」を論じて「設置又は管理の瑕疵」を推定しようとするものであるが、これを右の例に適用した場合には、右にのべたとおり、営造物の「瑕疵」を論じながら「設置又は管理の瑕疵」を論ずることとなり、あるいは「設置又は管理の瑕疵」を推定させない営造物の「瑕疵」を論じ、かつこれとは別に「設置又は管理の瑕疵」を論ずることともなりかねないのであつて、そうである以上右のような事例においては端的に「設置又は管理の瑕疵」を問題とするのが相当であり、また解決の早道でもあると考えられ、前述のようなアプローチにより「設置又は管理の瑕疵」を決するのは相当でないと考えられる。

(六)  そこで、後者のような事例において、いかなる場合に「設置又は管理の瑕疵」=河川管理瑕疵を認めるべきであろうか。

これは、結局、各事例における諸般の事情(管理という営為自体(作為、不作為)及びこれをとりまく客観的条件)を総合的に考慮し、(四)にのべたような基準により決する外ないと考える。

問題は、右判断の前提となる諸般の事情としてどのような事情を考慮すべきかという点と右一般条項的な基準が具体的事情のもとでいかなる具体的基準として現われるのかという点である。

しかし、この点は具体的事例を離れて抽象的に論ずることは不可能であるから、ここでは、原告らの前記三つの主張に関連して、各主張のような類型の事例に対していかなる判断基準でいかなる事情を考慮して判断を行うべきかを示すこととする。

(七)  (瑕疵その二)・一の主張に関連して

右主張は、向中条西名柄両地区に二七年全体改修計画に基づく改修を七・一七洪水時まで実施達成していなかつたことの不作為の営為の違法を主張するものである。

一般に、河川改修は一定の計画規模(基本高水流量(ダムによる洪水調節の行われる場合)あるいは計画高水流量)を設定し、これを目標にこれに耐えうる治水施設を将来相当長年月をかけて整備しようというものである(右目標達成までの期間は、当該河川の改修の緊急度により差異はあるが、一五年ないし二〇年かけて行うことも珍らしくないと思われる)。また、河川改修は膨大な工事量で多額の予算と人員を投入しなければならないため、右のように相当の長年月をかけざるを得ないものである。さらに右のような国の財政力からくる一般的な制約の点は別にしても、河川改修は、大量の用地買収、錯綜する複雑な利水権との調整を必要とし、また従前の地域環境を大なり小なり破壊するため、関係地域住民の協力あるいは賛同を不可欠とし、そのために改修の着手あるいは達成に長年月をかけざるを得ないことも多い。右によれば、計画規模を決定し、全体改修計画を樹立すれば、その時点で直ちに計画規模の洪水に対して安全確保義務を負うと考えるべきでないのはもちろん、かなりの期間経つた後において改修計画全区間のうちのある区間が改修未着手または未達成であつたとしても、そのことから直ちに安全確保義務違背があつたと推定することもできないというべきである。

右にのべたとおり、河川改修事業は、一般に長年月を要するものであり、前述のような制約の中で段階的に河川の安全性の向上を図ろうとするものであるから、このような性質に照らすと、その実施途中における国の安全確保義務の限界は、次にのべるような例外的場合を除き、原則として、その時点で設置されている治水施設により安全に流下させ得ると判断できる(もちろん、施設自体に内在する欠陥は考慮外)規模の洪水までであると解するのが相当であり、この規模を超える洪水により破堤したとしても安全確保義務違背があつたとすることはできないというべきである(水防活動体制あるいは実際の水防活動の当否の問題はさておく)。

しかし、右のような制約を斟酌しても、なお、憲法一三条やこれを源流とする(一)にのべた諸法条の精神等に照らし、改修未着手未達成の区間につき改修工事を実施達成することが期待しえたといえる場合、換言すれば、その区間の改修工事の実施達成の作為に出なかつたことが右法条の精神等に著しくもとり、そのことによる被害を被災者に甘受させることが正義公平に反するといえる場合には、前記原則にかかわらず右のような作為に出て安全を確保すべき義務があつたというべきであり、このような作為に出なかつたことにより災害が生じたときには、国の河川管理が安全確保義務違反のそれであつたとして国にその損害の賠償責任を認めてよいと考えられる。

しかして、改修計画区間のうちのある改修未実施区間につき改修工事を実施達成させていなかつたことの不作為の違法が主張されている場合においては、右不作為が以上のべたような意味における例外的に違法と評しうるものであるか否か検討することとなるが、その検討にあたつては次のような事情を相関的総合的に考慮するのが相当と考えられる。

営為自体に関するもの

全体改修計画の規模、右全計画区間における改修実施状況、問題の区間に改修を実施しなかつた経緯(制約事由を含む)、実施しないで経過した期間

客観的条件に関するもの

間題の区間の改修実施をしない状態下における当該区間の絶対的な安全度ないし危険度、相対的(他区間と比較しての)な安全度ないし危険度、後背地の重要性の程度等

(八)  (瑕疵その一)・四・(一)・(イ)の主張に関連して

原告らは、下高関地区改良復旧工事において、七・一七洪水後破堤箇所に築造した新堤防表法天端より一・二メートル下りまでの部分に洗掘防止のためのコンクリートブロツク張りの高水護岸を施す設計と施行にしなかつたことの違法を主張している。

ところで、八・二八洪水は、既に述べたとおり、七・一七洪水後の抜本対策として行つていたダムの設置を含む河川改修の実施途中(ダムも完成していず、また下高関地区前面河道も完成断面になつていなかつた)に生起したものであるから、右主張は、河川改修がすべて完了し、ダムも設置され、また下高関地区前面河道も完成断面になつたときに、右新堤防は天端までのコンクリートブロツク張りなしに河道計画高水流量に相当する流量を流下せしめうる安全性を有していたかという観点から検討するよりは、むしろ、原告らが右主張の補強として主張する(瑕疵その一)・四・(三)のように、ダムカツトを含めた河川改修が完成するまでの間の過渡的安全対策として新堤防天端までコンクリートブロツク張りをすべきであつたか、あるいは、これをしなかつたことが違法と評しうるかという観点から検討した方がよいと考えられる。

当該河川の各所が破堤するような洪水が生じ、そのため大きな被害が出たような場合、破堤箇所を単に従前通り原型復旧するのではなく、河川全体の安全性を高め右程度の洪水に十分安全に対処しうるよう、右洪水流量にさらに数割程度の余裕をみた流量を基本とした河川改修を行うのが普通であろうが、右改修は、一般に、未だ右のような事態の発生をみていない時点における河川改修に比し、特段に緊急実施の要請度の高いものであると考えられるから、特にすみやかにこれが実施完成を期するよう努めるべきことはいうまでもない。

しかし、それにしても、右のような改修は相当大がかりなものとなり、河道改修(堤防の強化、河床の掘削、流路の整正その他)だけでも数箇年は心要であろうし、さらにダムの設置をも含むときは、それ以上の期間を必要としよう。

従つて、その間に計画規模以下の洪水が来て破堤するとの事態も起りうるわけであるが、仮にそのような事態が起つたとしても、改修事業の進捗に可能な努力を払つて来たと認められる限り、一般的にはやむを得ない事態として国の責任を問うことはできないというべきである。

しかし、改修事業の進捗自体については可能な努力を払つてきたと認められる場合でも、例外的に次のような観点から責任を問われる場合がある。

我々は、過去の記録を上回る洪水を経験した後においては、現実的な危惧として、この新たな既往最大洪水程度までの洪水はまたいつ発生するかも知れないと考えるのが普通である。従つて、前述のような改修事業をできるだけ早期に完成させるべきことは当然であるが、その完成までには数箇年あるいはそれ以上の期間を不可欠とする以上、その完成までの間の過渡的安全対策についても相当の配慮をなして然るべきである。

そこで、かかる観点から国の安全確保義務違背の有無が問題とされる場合がありうるのである。

ところで、いかなる場合にかかる観点から安全確保義務違背が認められるかであるが、一般的には、本来の改修事業をできるだけ早急に進捗させることそれ自体が、同時に改修事業完成までの間における最良の、あるいは、必要にして十分な過渡的安全対策でもあると考えられる場合が多いであろうから、できるだけの努力をして本来の改修事業の進捗を図つていれば、他に特別の過渡的安全対策をとつていなかつたからといつて直ちに安全確保義務違背を認めることはできない。

しかし、事情によつては、河川法一条、災害対策基本法一条、三条の精神等に照らし、過渡的安全対策として本来の改修事業をできるだけ早急に進捗せしめることの外他に特別の措置をなすことが期待され、このような措置を講じなかつたことが右法条の精神等に著しくもとり到底容認されないと認められる場合もあろう。このような場合には、過渡的安全対策として右のような措置を講じなかつたことにつき安全確保義務違背を認めてよい。

ただし、このように認めうる場合は、かなり限定されるであろう。けだし、右のような措置は改修事業の完成までの間の過渡的安全対策としてなされるものであるから、これを講ずることによつて改修事業の進捗それ自体が大きく阻害されるものであつてはならないこと、過渡的安全対策のための費用も含めて一つの改修事業に用いうる費用にはおのずから限度があり、かつこの費用はできるだけ本来の改修事業の方にふりむけられるのが望ましいことなどに徴すると、過渡的安全対策として、かなりの人手、費用、時間を要する措置を期待するのは一般に無理であり、小規模ないし局所的な措置で相当な範囲の後背地の安全にかなりの効果をあげうると認められるときにはじめて過渡的安全対策としてこのような措置を望みうると考えられるところ、このように認めうる場合はかなり少なく、一般には小規模ないし局所的な措置では後背地の安全にとつて無意味であることが多いからである。

以上によれば、過渡的安全対策に関する違法を認めうる余地はかなり狭いと考えられるが、なお例外的にしろ違法を認めうる場合もあるから、過渡的安全対策として何らかの措置を講じなかつたことの違法が主張されている場合には、以上のべた点をふまえつつ、次のような事情を総合的に考慮し、このような事情の下で右措置を講じなかつたことが果して右にのべた点からみて例外的に違法と評しうる場合に該当するかどうかを検討して、その当否を決するのが相当である。

既往最大洪水の規模、改修計画の内容、改修の順序、改修事業完成に要する期間、過渡的安全対策として講ずべきであつたと主張されている措置の内容(施工区間、費用等)、これを施すことによる安全効果、未措置の状態における当該区間あるいはその上下流の危険の態様、程度等。

(九)  (瑕疵その一)・三・(二)の主張に関連して

原告らは、七・一七洪水後向中条、西名柄両地区破堤箇所に築造した仮堤防につき、七・一七洪水あるいはそれ以上の規模の洪水が起つても溢水破堤から安全なように堤高をとるべきであつたのに、その堤高を流失した旧堤防とほぼ同高としたことの違法を主張する。

河道湾曲部の破堤を契機にそこをシヨートカツトし新河道を作るという改修方式によつて改良復旧計画をたてた場合(ある河道計画高水流量を定め、これに基づきある区間の河道改修を行う場合、その改修の方式の主なるものとしては、在来河道を利用する方式(河床掘削、堤防の嵩上げ等)と在来河道をシヨートカツトし新河道(捷水路)を造る方式とがあろうが、一般的には、後者の方式による方が高価であるが、完成した姿においてより安全、すなわち、完成後不測の要因によつて破堤する事態を招く可能性がより小さいとされている)、在来河道に本堤防を築くことができなくなるが(同一地区に改修方式の異なる二重の改良復旧計画をたてることまでは期待しえない)、破堤箇所を破堤したまま放置しておくことは一般に社会生活上受忍の限度を超え到底許容されないから緊急に仮堤防を築くべきである。

ところで、一般に仮堤防は、本堤防工事が完成するまでの間の応急対策ないし過渡的安全対策として緊急に施行される仮施設である。従つて、その計画規模(計画対象水位)、断面、構造は、本堤防を築く際のそれとは通常異なるだろうし、またこのような差異があつたとしても右にのべた仮堤防の目的、性格に照らし、やむをえない。本堤防については、既往最大洪水程度の洪水あるいはそれを数割程度上回る洪水に対し安全な設計と施行にするのが普通であろう。しかし、仮堤防については、このような設計と施行にしなくとも本堤防工事が完成するまでの間の、すなわち、仮堤防存置期間内の、後背地の暫定的な安全が確保される断面、構造とすれば足りる。しかして、いかなる断面、構造の仮堤防を築造すれば後背地の暫定的な安全を確保したといえるかであるが、これを堤高についていえば、仮堤防の存置期間、既往最大洪水の規模、後背地の重要性の程度にもよろうが、一般に流失した旧堤防が溢水から絶対的にも相当安全度が高く、上下流在来堤と比較しても相対的な安全度はさほど変りない場合には仮堤防の堤高を旧堤と同高に施行すれば、右の要請を満しているといつてよいであろう。これに対し、流失した旧堤防が溢水から絶対的にも安全度が低く、上下流在来堤と比較しても相対的な安全度に顕著な懸隔のある場合には、仮堤防の堤高を流失した旧堤防と同高にするだけでは足りず、さらに上下流在来堤と同高程度にまで施工する必要が出てくる場合があろう。しかし、いずれにしても、仮堤防の堤高としてある高さをとつたにしても後背地の安全にそれだけの効果がなく、後背地の安全にそれだけの効果を確保するためには、同時にその付帯的工事として他に大々的に上下流在来堤に嵩上げ腹付け等を施さざるを得ないと認められるような場合には、一般に仮堤防の堤高をこのような付帯的工事を必要としない高さに止めて、余力(費用、人員)を本来の改修工事の方につぎこんで、これが進捗を図るのが本筋と考えられるから、右の高さにしなかつたことをもつて、直ちに安全確保義務違背と認めることはできないと考えられる。

右によれば、前述のような違法の主張のあるときは、次のような事情を右にのべた観点から考慮し、その当否を決すべきと考えられる。

仮堤防の設置期間、後背地の重要性の程度、既往最大洪水の規模、流失した旧堤防の絶対的あるいは相対的安全度、主張されている堤高の仮堤防を築いたときの安全効果、主張されている堤高の仮堤防を築いたとき必要となる付帯的工事の内容等。

六  (瑕疵その一)・三・(二)の主張に対する判断

一般に、仮堤防は、本堤防工事が完成するまでの間の応急対策ないし過渡的安全対策として緊急に施行される仮施設であり、その間の後背地の暫定的な安全を確保するものであること、向中条、西名柄両地区破堤箇所に築造した堤防が仮堤防であつたこと、右仮堤防の存置期間は、両地区のシヨートカツト工事が完成するまでの二年間(昭和四一年度後半及び昭和四二年度)であつたこと、右仮堤防は、流失した旧堤防とほぼ同高に施行されたことはすでに述べた。また、仮堤防設置の理由は、第五・二・(二)に述べたとおりである。

そこで、右仮堤防の堤高として、七・一七洪水あるいはそれ以上の洪水が生じても溢水から安全な高さをとらずに、流失した旧堤防とほぼ同高程度に施行したことが違法といえるか否か検討する。

(1)  姫田川合流点下流は、計画高水流量毎秒一、四四〇立方メートルの既改修区間であるところ、七・一七洪水は、これをはるかに超える規模のものであり、その最大流量は毎秒二千二、三百立方メートルプラスマイナス二割程度(但し、氾濫不考慮)、原告らが、より正確であると自認するところによつても、毎秒一、九三四立方メートル程度であつた。このため、向中条地区は溢水破堤し、西名柄地区は溢水はしなかつたものの満水状態となつた後引水破堤し、また〈証拠省略〉によれば、右両地区以外の姫田川合流点下流の両岸堤防もほぼ全延長にわたつて、若干の差異はあろうが、ほぼ満水状態もしくは満水に近い状態となつたことは間違いなく、さらに溢水状態が始つていたものの向中条地区破堤による急激な水位低下により破堤を免れた箇所も数箇所程度はあつたと認められる。また、向中条、西名柄両地区はいずれも湾曲外延部にあり、そのため各前面水位はいずれも若干盛り上がる現象があると考えられるが、両地区付近の河床勾配がかなり緩く(〈証拠省略〉によれば、姫田川合流点より下流の河床勾配は一、九〇〇分の一程度と認められる)、従つて、流速もさほど速いものとは考えられないことに照らせば、水位上昇の程度がさほど著しいものとは考えられない。

以上によれば、七・一七洪水時姫田川合流点下流両岸のうち、向中条地区破堤箇所の堤高が水位との関係でおそらく最も低く従つて溢水に対し最も危険であり、また西名柄地区破堤箇所もあるいは溢水との関係で危険度の高い方の部類に入つていたかもしれないと考えられるが、特に両破堤箇所だけが他箇所と比べて溢水に対する危険度が顕著に高かつたことは認めることができない。

(2)(イ)  近年の加治川改修工事は、明治四〇年から下流の砂丘地帯をシヨートカツトする分水路工事が施行され、大正六年にはこれを完成し、引き続き上流姫田川合流点までの区間の改修工事が施行され、大正一四年頃一応これを完成した。さらに昭和一一年まで残工事及び維持工事が年々行われた。しかして、昭和四一年の七・一七水害に至るまでの約五〇年間位は、姫田川合流点より下流部においては、向中条、西名柄両地区を含め、特に記憶に残るような水害は発生しておらず、加治川治水史上では最も安定した時代となつてきたものである(ちなみに、それ以前の寛永一〇年から大正二年までの間の二八〇年間の加治川における水害度数は五四回に及んでいる(〈証拠省略〉)。

(ロ)  また、岡田測水所は、昭和三四年より観測開始したものであるが、この記録と〈証拠省略〉によれば、七・一七洪水前の過去約七年間の向中条地区における最高水位は、おそらく流失した旧堤天端より一メートル下り位であつたと推定され、また一、二年に一度程度の洪水が示す水位は旧堤天端よりおそらく二、三メートル下り位であつたと推定される。

(ハ)  さらに、七・一七洪水をもたらした七・一七豪雨は、従前の降雨記録を大巾に上回るものであり、従前の降雨記録からみれば、かなり異常な豪雨といつてよく(但し、表二-四の超過確率は原告ら主張のように少ない資料数のもとで算定したものであるから、その信頼度につき間題があり(資料数が少ないと小さすぎる値が出ることが多い)、この点割引いて考える必要がある。なお資料数の貧弱さは加治川に限られた問題でなく、全国の全河川に共通した問題である)、七・一七豪雨後においては、このような豪雨を経験した以上、同程度の豪雨はまたいつ来るかも知れないと考えるべきであつたにしろ、その頻度はかなり小さいと考えても不当ではなかつたと思われる(なお、原告らは、加治川には連年水害の歴史がある旨主張するが、全証拠によるも、加治川について、異常豪雨もしくは異常洪水の生じた翌年は、これと同規模もしくはこれを上回る豪雨もしくは洪水が再度連続して生ずる蓋然性が強いとの法則性を見出すことはできない)。

(ニ)  以上のように、明治四〇年からの姫田川合流点下流の改修の結果、同合流点下流の両岸堤防は向中条、西名柄両破堤箇所を含め、大正六年以来七・一七洪水に至るまでの約五〇年間安全であつたものであり、その間に起つた全洪水を防禦し後背地の安全を確保してきた実績を有すること、一、二年に一回程度の洪水の水位は旧堤天端よりかなり下位にあること、旧堤は七・一七洪水により溢水破堤もしくは満水の後引水破堤したが、右洪水をもたらした七・一七豪雨は従来の記録を大巾に上回る豪雨であつて、再発の頻度はかなり小さいとみれることなどに照らすと、七・一七洪水後を基準時点にして考えてみても、流出した旧堤防程度の堤高でも、七・一七洪水ほどでないにしても相当発生頻度の小さい洪水に対してこれを溢水させない高さであつたと認めることができる。

(3)  原告らは、両地区仮堤防の堤高として七・一七洪水あるいはこれを上回る規模のものに対しても溢水しないような高さをとるべきであつた旨主張する。

両地区仮堤防の計画対象水位として七・一七洪水の水位を採用した場合、このような水位が生じても風浪跳水等を防ぎ、かつ、水防活動にも便利であるとの条件を満す堤高としては、おそらく旧堤防天端より一メートル近く高いものでなければならなかつたと思われる。また、七・一七洪水を一、二割あるいは二、三割上回る規模の洪水が示すであろう水位を計画対象水位として採用した場合には、右の条件を満す堤高として旧堤天端より一メートル強以上は高いものをとらなければならなかつたと思われる。

ところで、(1)にも述べたとおり、姫田川合流点下流において両地区破堤箇所だけが格段に溢水に対して危険度が高かつたとの事情は存しない。従つて、仮堤防を旧堤防より例えば一メートル高く施行することとした場合、仮堤防だけをこのように施行しても後背地の安全にとつてあまり意味がなく、同時にその上下流在来堤防に(向中条、西名柄地区大湾曲部(延長約二キロメートル位、図二-一九(A)参照)だけでなく、少なくとも姫田川合流点下流ほぼ全延長にわたつて)同程度の嵩上げ及びそれに伴う裏腹付を施す必要があつたことは明らかである。しかし、かかる大々的な工事を仮堤防工事の一環として施行することが期待されたかについては、これを否定的に解すべきこと多言を要しないと思われる。

(4)  以上(1)ないし(3)にのべた点に照らすと、両地区仮堤防を含む姫田川合流点下流両岸堤防が防護する後背地の重要性の程度等を斟酌しても、二年間の存置期間が予定されていた両地区仮堤防の堤高としては、流失した旧堤防と同高程度のものをとれば足り、これを超えて七・一七洪水程度あるいはこれをさらに上回る規模の洪水が生じても溢水から安全なような高さをとらなければならなかつたとまではいえないと考えられる。従つて、県土木部が両地区仮堤防の堤高を旧堤とほぼ同高程度に施行したことに何ら違法な点はなく、原告らの(瑕疵その一)・三・(二)の主張は理由がない。

七  (瑕疵その二)・一の主張に対する判断

(一)  右主張については、瑕疵の有無の問題とは別に因果関係の有無にも問題があるので、瑕疵の有無の判断に入る前にこの点につき判断する。

原告らは、昭和二七年樹立した計画高水流量毎秒二、〇〇〇立方メートル(姫田川合流点下流)に基づく全体改修計画を七・一七洪水時までに達成していれば、向中条、西名柄地区は、破堤しなかつたであろうし、八・二八洪水でも破堤することはなかつたであろうと主張する。

ところで、八・二八洪水の規模は、基準点加治大橋で最大流量二、八〇〇立方メートルないし三、〇〇〇立方メートルプラスマイナス二割程度(但し、氾濫不考慮)であり、原告らがより正確であると自認するところによつても、毎秒二、四〇〇立方メートル弱程度であつた。ここでは、八・二八洪水の正確な規模が不明であるので、一応原告らの自認する流量を前提にして判断を進めることとする。

一般に河川改修を行つた場合、改修前に較べ、洪水の出足が早くなり、下流部に洪水が集中する傾向があるといわれている。従つて、八・二八洪水の規模が二七年計画による改修の完成していない河道において最大流量毎秒二、四〇〇立方メートル弱であつたとすれば、二七年計画が達成され改修区間の河道が完成していた場合には、おそらく右流量を一、二割上回る最大流量が生じていたであろうことは推察に難くない。そこで間題は、計画高水流量毎秒二、〇〇〇立方メートルの完成河道に最大流量毎秒二、四〇〇立方メートルプラス一、二割程度すなわち毎秒二、八〇〇立方メートル内外程度までの洪水が流下した場合、それでも破堤することはなかつたといえるかということである。

原告らは、おそらく、毎秒二、八〇〇立方メートル内外程度の流量でも余裕高内に収めえ、安全に流下させることができたと主張するであろう。

堤防を設計する場合、堤防の浸透、洗掘、溢水に対する安全性の検討は、計画高水流量が流下したときに示すであろう水位、すなわち、計画高水位を対象にして行われ、余裕高も含めた満水位を対象にしては行われない。余裕高は、堤防が一般に土堤であり、溢水に極めて弱いことから洪水時の風浪洪水流のうねり、跳水等により生ずる一時的な水面上昇による溢水破堤を防止する目的と水防活動の便宜を考えて設けられるものである。つまり、余裕高は、計画高水位までの洪水が生じた場合にこれに対する堤防の安全を確保するため設けられるものであつて、計画高水位を超える洪水が生じた場合の洗掘、浸透、溢水に対処するため設けられるものでないのである。

但し、そうはいつても、右にのべたとおり、余裕高は、波浪等により一時的にしろ、河水にさらされることが予定されているものであるから、単なる土塊であつてよい筈はなく、それ相応の安全性をもたせるようにしなければならないのは当然である。そして、余裕高が右のような安全性を有していれば、計画高水位を若干上回るような洪水位が生じても(計画高水流量を超える洪水による場合と計画高水流量内の洪水による場合(例えば・洪水中に河床変動等があつたとき)とがあろう)、溢水しない限り安全であるのが普通であろう。

しかし、計画高水流量をかなり上回る洪水が生じたときには(この場合には洪水位が計画高水位をかなり超えると考えなければならない)、余裕高が余裕高としての安全性をもつていたとしても、まず、溢水破堤することがありうると考えなければならないし、また溢水破堤はしなくとも浸透破堤あるいは洗掘破堤することがありうると考えなければならない(もつとも、経験的には、水位が計画高水位よりかなり上位にあつても浸透あるいは洗掘破堤を免れた事例はあるが、それは結果的に余裕高がそのような強さをもつていたということであつて、余裕高を必ずそのような強さにしなければならない義務があるということではない)。

以上によれば、姫田川合流点下流が計画高水流量毎秒二、〇〇〇立方メートルの完成河道になつていたとしても、右計画高水流量をかなり大巾に超えるといつてよい毎秒二、八〇〇立方メートル内外程度の洪水が流下した場合には、同下流両岸(もとより向中条、西名柄地区を含む)が破堤することはなかつたとまでは認めることはできないから、結局、原告らの前記主張は瑕疵と結果との間の、これなければあれなしという因果関係の存在についての立証が十分でないというべきであり、排斥を免れないと考えられる。

(二)  次に、向中条、西名柄両地区に二七年全体改修計画に基づく改修を七、一七洪水時までに実施達成していなかつたことが違法といえるか否かにつき検討する。

(1) 県土木部は、昭和二七年、計画高水流量毎秒二、〇〇〇立方メートル(基準点加治大橋)とする加治川全体改修計画を樹立し、中小河川改修事業で加治川の改修工事を行うこととしたことは前に述べた。

ところで、右計画高水流量算出の基礎となつた計画日雨量は、既往最大日雨量を三〇ミリメートル弱上回る二〇〇ミリメートルであつて、これは当時の超過確率では一〇〇分の一に相当するものであつた。現在一般の中小河川改修が超過確率五〇分の一で計画されていることに照らすと、昭和二七年全体改修計画が当時としては極めて高い計画であつたことは明らかである。

(2) 中小河川改修事業の対象区間は図一-九〈省略〉のとおり、加治川中下流部主要部分に及んでいるが、右改修事業の七・一七洪水時までの実施状況は次のとおりである。

改修工事は、まず、従来の加治川改修から取り残され、小氾濫、を繰り返し、地元からも改修の要望の強かつた姫田川合流点より上流地区の河川の安全度を下流部程度まで向上させることから行うこととし、七・一七洪水時までに本川については右合流点より岡田間の河積の拡大、引堤等を行い、姫田川につき坂井川合流点より上流部分のシヨートカツトを行つた。この改修工事に要した費用は約三億六、〇〇〇万円である。

姫田川合流点下流本川については、その改修の主眼は、河床を掘り下げ、洗堰を切り下げて天井川の解消を図り、また西名柄向中条付近の蛇行部を整正することにあつたが、七・一七洪水までこのような改修の着手までには至らなかつた(但し、流下機能維持のため中州の発達している箇所の掘削等はなされていた)。

ところで、右の二七年全体改修計画にもとづく改修の進捗が全体として遅れすぎていたといえるか否かが問題となる。この点については、これに費した改修事業費を他の県内中小河川改修事業費と比較することによつて解明の手がかりが与えられる。

〈証拠省略〉及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

加治川の改修事業費を県内的にみると、昭和三〇年代の後半からは、県内中小河川改修事業のおおむね中位の事業費となつており、他の河川の事業費と較べてみても、特に加治川の改修事業が等閑視されていたということはない。加治川より上位の河川は当時度々災害を被つていた鯖石川、保倉川、刈谷田川、黒川等及び地盤沈下対策の中の口川、県内中小河川中最重要河川である旧信濃川であつて、それぞれ緊急に改修する必要に迫られていた河川である。

予算配分にあたつて、河川改修の緊急の度合により、予算額に厚薄がつけられることは国等の治水にさきうる予算に限度があることからやむをえないことであり、また緊急度は種々の要素の総合判断であるが、とりわけ、現実に発生した被害の程度が重要な要素となるものである。

この点、加治川は、姫田川合流点より下流については、一応改修が行われた河川であり大正六年の分水路完成以後は同合流点より下流では大きな災害は発生しておらず、比較的安定した河川であつた。このような状態の中で加治川につき中位の予算措置のなされていたことは、加治川の改修事業の進捗につき十分な努力が払われていた事実を指し示すものであつても、その逆の事実を示唆するものではないというべきである(もつとも、県内中小河川のうち、加治川だけが、人口の密集する大都市を貫流し、その氾濫が直ちに多大の人命の損失に結びつくというような事情があつたとすれば、右のような比較のみで右のような結論を導き出すのは早計というべきであるが、加治川はこのような事情の存する河川ではない)。

(3) 県土木部は、昭和二七年全体改修計画樹立後対象全区間のうち、(2)にのべた区間より改修を実施していたものであるが、右区間は従前より小氾濫を繰り返してきて、姫田川合流点下流区間よりかなり危険度の高い区間であつた。

一方、右区間等の改修を実施し安全度を姫田川合流点下流区間程度に向上させた後改修を行うことにしていた姫田川合流点下流区間は既改修区間であつて絶対的にもかなり安全度の高い区間であつた(なお、姫田川合流点下流部のうち、向中条、西名柄地区だけがその上下流の安全度に較べ格別に劣つていたと認めるに足る証拠はない。また、昭和二七年以降昭和四一年の七・一七洪水までの間、前述のとおり発達した出州の掘削等を行つていたことなどに照らすと、この間の姫田川合流点下流の安全度に特段の変動があつたとは認められない)。

ところで、県土木部が、右にのべたとおり、安全度の低い区間から改修を実施しその安全度を安全度の高い区間程度に向上させた後安全度の高い区間の改修を実施するという方針のもとに改修を実施してきたことの当否であるが、財政上、技術上の制約や人手の間題等を考えると、加治川のような全体としてかなり安全度の高い河川についてはある改修計画をたててもこれを全区間一斉に実施に移すことを期待するのは無理である。右のように全区間のうち一部の区間に改修を実施し、順次全区間に改修を及ぼしてゆくという改修方針をとつたとしてもやむをえないというべきである。ただし、その場合でも改修の順序の当否の間題は残る。しかし、本件の場合、県土木部は、まず危険度の高い区間から改修を施してきたものであつて、これは改修の順序として一般に是認しうるところと考えられる(もつとも、後背地の重要性の程度等によつては、安全度の高い区間から改修を実施すべき場合がありうると考えられるが、本件の場合、姫田川合流点下流区間が相対的にも絶対的にもかなり安全度の高かつたことを考えれば、その後背地の重要性の程度等を考慮にいれても、直ちに右の場合に該当すると認めることはできないというべきである)。

(4) 財政上の間題とは別に、加治川本川殊に姫田川合流点下流本川の改修を困難なものにしていた事情がある。

〈証拠省略〉及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

(イ) 加治川の堤防は、長堤十里といわれる日本でも有数の桜の名所であり、地元民の誇りであつたと同時に県内でも有数の観光資源であつた。そのため、改修工事で河積を広げる引堤や堤防法線の是正によつて桜を切るような計画に対しては、県土木部の説得にもかかわらず、仲々理解がえられず、地元及び関係者である加治川保勝会、加治川桜保存会、加治川観光協会等の強い反対があつて、七・一七洪水前においては、早急にこの問題を解決することは非常に困難な情勢にあつた。また、姫田川合流点下流本川沿岸は分水路工事完成以降大規模な災害を受けなくなり、戦後においても、堤防決壊の危険を感じさせるような洪水が発生していなかつたことも、地元の反対を強めた一因であつた(〈証拠省略〉によれば、測量のための立入りを頭から拒否していた部落もあつたという)。

(ロ) 加治川本川改修の主眼は、河床を掘り下げ、洗堰を切り下げて天井川の解消を図ることであるが、加治川本川改修の最大の問題点は農業用水にあつた。

加治川本川の改修区間には、昔から用水の井堰取水口が宮古木用水外四箇所、自然取水口が西中江用水外一三箇所もあり、更に洗堰により用水河川となつた旧加治川には、自然取水口が北部用水外一四箇所もあつた。その大部分は、昔からの慣行水利権によつて取水していたが、各取水量は有り余る程の水量でなく、またこの水利権をもつ関係土地改良区は九区にも及んでいた。これらの用水施設は約八、〇〇〇ヘクタールに及ぶ広大な耕地を灌漑してきたのであるが、これが、一方で、加治川下流部を昔から天井川にしてきた原因であり、また河床掘り下げを困難にしてきた原因であつた。

河川改修の目的は治水を主とする場合と利水を主とする場合に分れるが、いずれにしても他の二次的な目的を犯さないようにしなければならない。治水を第一目的とするときは少なくとも現在の利水状態を悪くしないように考えなければならないし、利水を第一目的とするときは治水上悪影響を及ぼさないようにしなければならない。

右にのべたところから明らかなように昭和二七年全体改修計画を加治川本川なかんずく姫田川合流点下流本川に本格的に実施するにはまずもつて当時の用水機能を維持するための工事を付帯工事として行う必要があつたものである。ところが、昭和二七年全体改修計画の付帯工事として用水機能を維持する構造物を設置するについては、県土木部の努力にもかかわらず、当時水利権をもつ関係土地改良区の同意を得るに困難を極め、さらに前述の区間の安全度の向上が優先して七・一七洪水時までこれに着工する余裕がなかつたものである(なお、姫田川合流点下流本川につき河床を掘り下げ、洗堰の切り下げを行わなくても堤防の嵩上げを行えば毎秒二、〇〇〇立方メートルの流量を収めうるわけであるが、天井川をそのまま放置して改修を行うのは短期的には安全のようでも、長期的にみると危険の要素を多く含むとされている。またこのような改修方法は一たん計画規模を超える洪水がきて破堤した場合、後背地の被害を倍加させるおそれがあるとされている。このような点を考えると、さほど改修の緊急度の高くなかつた加治川において、姫田川合流点下流本川につき前者のような改修方法に替えて後者の改修方法を採用すべきであつたとまではいえない)。

(5) 以上のべたように、加治川はかなり安定した河川であり、また、二七年全体改修計画の達成目標は極めて高いものであつたこと、右計画にもとづく改修は昭和四一年の七・一七洪水時までに姫田川合流点下流区間に実施されたことはなかつたが、全体としてはその進捗が特に遅れすぎていた点はうかがえないこと、また右計画にもとづく改修は危険度の高い前示の区間から実施されているが、姫田川合流点下流区間の安全度に照らせば、右区間の後背地の重要度を考慮に入れても、前示区間から改修を実施したという実施の順序が特に当を欠いていたとはいえないこと、さらに、姫田川合流点下流本川については、その改修を実施するにつき、当時、地元の強い反対を受けており、また水利権者の同意も早急にはとりつけえない状況にあり、これが右区間の改修実施を極めて困難ならしめる事情となつていたことなどを考慮すると、二七年全体改修計画を七・一七洪水時までに向中条西名柄地区に実施達成させていなかつたことをもつて、社会通念上容認し難く、これによる八・二八洪水の被害を被災者に甘受させることが正義公平に反するとまでは到底いえないから、原告らの右不作為が違法であるとの主張は採用の限りではない。

八  (瑕疵その一)・四・(一)・(イ)の主張に対する判断

県土木部が、下高関地区改良復旧工事において、七・一七洪水後破堤箇所に築造した新堤防表法天端より一・二メートル下りまでの部分に洗掘防止のためのコンクリートブロツク張りの高水護岸を施さなかつたことが違法といえるか否かにつき検討する。

(1)  七・一七洪水時、下高関地区堤防は、一〇数時間にわたり持続した高水位の水勢によつて前面が洗掘し続け、午後九時頃遂に破堤するに至つたものである。七・一七洪水時の同地区付近の最大流量は、毎秒一、三五〇立法メートルプフスマイナス二割程度であつた。同地区破堤箇所付近における七・一七洪水時の最高水位がどの程度であつたかは証拠上明確でない。

(2)  県土木部は、七・一七洪水後改修計画を立案するころにおいては、七・一七洪水における最大流量を毎秒一、四〇〇立方メートル前後と推定していたものであるが、〈証拠省略〉及び弁論の全趣旨によれば、当時、県土木部は、右の毎秒一、四〇〇立方メートル前後の流量が下高関地区に流下した場合、同地区に現われる水位は、破堤箇所に築造予定の新堤防を基準にすれば、従来の河床深、河巾のままではおよそその天端より七〇センチメートル下り前後、つまり、その表法に施工予定のコンクリートブロツク張り高水護岸の上端より上五〇センチメートル前後、災害復旧助成事業による河床掘削及び堤防法線の是正の後においてはそれより若干低目程度と考えていたと推認される。

(3)  加治川災害復旧助成事業について

七・一七洪水後、県土木部は、ダムカツトを含む加治川の抜本的な全体改修計画を樹立した。そして、河川の施設災害の特に激甚であつた本川向中条西名柄湾曲部から上流小戸橋間延長約一二四キロメートルは災害復旧助成事業で、直ちに改修に着手することとした。

右事業で行うこととした改修計画の骨子は、河床掘削、河積の拡大、堤防法線の是正、堤防の強化、護岸、根固工の整備等である。またその事業費総額は約三〇億円であつた。右事業は、四三年出水期までに概成、四五年度完成を目途としていた。もつとも、右事業は事業区間も長く事業規模も大がかりのものであつたから、それだけ事業進捗上種々の予期しない障害が起りうる可能性が高かつたこと、また、右事業のおそらくは最終段階で本格的に行われることになつていたであろう河床掘削は自然の流水の掃流力に頼る部分が大きいものであることなどに照らせば、右の四五年度完成という目途は、確実な目途ではなく、若干遅れることもありうる大体の目途であつたということができる。

(4)  下高関地区の災害復旧助成事業について

県土木部は、昭和四一年一一月より同地区の改修に着手し、昭和四二年三月一三日までに右岸破堤箇所及び直近上下流の堤防工事ならびに破堤箇所対岸の低水護岸工事を概ね完了した。そして、引き続き、上下流の堤防強化を実施中のところ、八・二八洪水に遭遇した。同地区では災害復旧助成事業でその他に河床掘削、左岸堤防法線の是正等を行う予定であつたが、八・二八洪水当時これらの工事は未実施であつた。弁論の全趣旨によれば、同地区河道を完成河道にするおよその目途として、県土木部は、昭和四五年度を考えていたことがうかがわれ、全事業区間のうちで同地区だけを特に早期に完成河道にする予定があつたとうかがうことはできない。

(5)  治水ダム建設事業について

七・一七洪水後、県土木部は、加治川治水ダム及び内の倉ダムにより洪水調節を行うこととした(カツト量毎秒六〇〇立方メートル)。

加治川治水ダムは、昭和四一年八月設置が計画され、ただちに予備調査に入り、翌四二年度には実施調査を行い、同四三年度もしくは同四四年度からは建設に着工し、同四七年度には完成させる予定であつた。

内の倉ダムは、昭和三九年一二月、農林省において設置を計画し、その後予備調査を終り実施調査を行つていたところ、七・一七洪水が発生したため、同ダムに洪水調節の機能が加えられたものである。同ダム建設の工程は、昭和四二年度に着工し、同四七年度には完成の予定であつた。

ただし、右の両ダムが昭和四七年度完成予定であつたといつても、右両ダムの設置が山地の工事であつて、技術的にも平地よりかなり困難な点があり、思わぬ障害のため予定通り工事の進捗しないことが往々起りうること(特に加治川治水ダムの方は未だ予備調査も了していなかつた)などを考えると、実際の工事完成が右の予定より数年度程度遅れることもありえたと考えられるものである。

(6)  下高関地区あるいはその上下流区間の危険の態様、程度等について

ある地区の河川改修(過渡的安全対策として行う措置を含む)を行うに当つては、その地区の水害史やその地区あるいはその上下流の地形的特性等を考慮して適切な計画を立てる必要がある。

つまり、これらを検討して得られる当該地区あるいはその上下流の危険の態様、程度等は改修計画策定上の重要な参考資料となるものであり、逆にいえば、当該改修計画の当否を検討する際の重要な資料となるものである。

ところで、〈証拠省略〉及び前記第四認定の事実並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

(イ) 高新橋より上流の右岸一帯は、他地区と同じく土羽堤であつたが、昭和七年七月一九日に七・一七水害の破堤箇所よりやや上流の地点が洗掘により破堤し、さらに同九年七月一一日にも同様の原因で同様の地点が破堤した。そこで、再度の破堤に鑑み、破堤箇所一帯の表法に天端ないしは天端付近まで野面石練積みを行い、洗掘に対処することとした(両洪水の規模については証拠上明白でない。しかし、その最大流量は、七・一七洪水を相当下回つていたと思われるし(表二-五参照)、また、昭和二七年以降七・一七洪水時までの間にある程度姫田川合流点上流岡田間の河積の拡大がなされたにしても、両洪水時の下高関地区最高水位が七・一七洪水時のそれを上回つていたと考えることは無理である。両洪水の規模がこの程度であつたのに、その対策として施された護岸工事の内容が右にのべたようなものであつたことは特に留意を要する)。

その後、下高関地区は七・一七洪水まで破堤することなく経過してきた。しかし、七・一七洪水時下高関地区は再び洗掘破堤した。その破堤箇所は前記石練積み箇所の下流端(図二-一九(B)記載の〈41〉)加助六の五L=七三・五メートルの下流端、〈41〉)加助六の一L=三二〇メートルの上流端)よりやや下流であり、下高関地区の中で最も水当りの強い箇所であつた(昭和七、九年ころにおいては、下高関地区のうち最も水当りが強かつたのは前記石練積みの箇所であつたと思われるが、年月の経過により段々これが下流側に移動したものと推定される)。右箇所は土羽堤であつたため、七・一七洪水の強い水勢に抗しされず破堤したものである。

なお、右破堤箇所より上流の前記石練積み箇所は表法が堅固に、防護されており、かつ最も強い水衝部から外れていたため七・一七洪水時洗掘から安全であつた。また、右破堤箇所より下流側は、破堤箇所同様土羽堤ではあつたが水流の直撃を受ける位置ではなかつたため破堤箇所寄り二〇メートル位の堤防表法が若干侵蝕を受けた程度で大した被害はなく、一応洗掘破堤から安全であつた。

(ロ) 加治川は下高関地区で大きく湾曲しており、その付近の河床勾配は三〇〇ないし四〇〇分の一程度である。下高関地区は右湾曲部の外延部に位置しているため加治川でも有数の水衝部となつており、洗掘に対する危険度が著しく高い。加治川中流部(小戸橋付近からここでは姫田川合流点付近までの間をいう)右岸にはこの外に下高関地区ほどの水当りの強さではないけれども大新橋やや下流付近が水衝部となつているが(同所は七・一七洪水では破堤し、八・二八洪水では破堤していない)、この付近は堤防のすぐ裏側に竹林があり、これが自然の副堤的役割を果すため、七・一七程度の洪水では破堤しても氾濫水が大量に後背地に流出するおそれは少ない箇所である。これらの地区及び自然河道である中流部最上流付近を除く中流部右岸は、その河床勾配から考えて七・一七洪水程度の洪水が生じた場合洗掘破堤の危険を一般的に否定することはできないけれども、その危険性は下高関地区のように顕著ではなく、なお相当の安全性を残していると考えることができたものである(なお、七・一七洪水時大新橋東柳橋間右岸の霞堤のやや上流付近が破堤しているが(破堤原因は証拠上不明)、その付近は七・一七洪水程度の洪水で破堤しても氾濫水はその裏側にある下流堤との間の主として雑草、雑木地帯に流れ込むだけで、さらに裏側の下流堤をつきやぶりあるいはこれを迂回して、本川と姫田川に囲まれた三角地帯に広がる危険性は少なかつたものである)。

ただし、姫田川合流点より岡田地区付近までの間の右岸は、右にのべたとおり洗掘破堤の危険性は少ないけれども、七・一七洪水程度の洪水が生じた場合、その上流区間と異なり溢水破堤する危険が高いと考えられたものである。また中流部最下流の姫田川合流点付近、低地は本川右岸が破堤しなくとも、姫田川左岸からの溢水、合流点霞堤からの河水の逆流で湛水を免れない地帯と思われる。

なお、中流部最上流付近は低水路沿岸のゆるやかな河段丘が自然河道を形成しているが、七・一七洪水程度の洪水が生じた場合、河水は低水路から河段丘に相当量あふれるものと思われるけれども、その地形的状況からみて、この水が姫田川と加治川本川に囲まれた扇状地に広がり下高関地区付近に到達することはないと考えられるものである。

また、姫田州合流点から下高関地区やや上流までの間の右岸堤防は土羽堤であり、かつ河床もさほど低くないため、七・一七洪水程度の洪水が生じた場合、浸透破堤の危険性が全くないとはいえないが、その度合はきわめて小さいと考えられるものである(漏水が生じても直ちに破堤につながるものではなく、破堤するまでには通常多大の時間を要する)。

(7)  以上の点などを考慮しながら、原告らの主張につき判断する。

(イ) 加治川中流部右岸(但し、中流部最上流付近及び岡田地区付近より下流を除く)で最も危険な地区は下高関地区であり、その中でも最も危険な箇所は七・一七洪水時の破堤箇所であつた。そして、右区間で特に重視すべき危険は洗掘破堤の危険であつたが、七・一七洪水程度の洪水が生じた場合、右破堤箇所を除く残余の区間は洗掘破堤して氾濫する危険は全くなかつたとはいえないけれども、なお相当の安全度をもつていたのに対し、右破堤箇所は土羽堤のままではもちろん、仮に天端より一二メートル下り以下にコンクリートブロツク張りの高水護岸を施してもなお洗掘破堤し氾濫する危険は極めて高く(同箇所において天端より七〇センチメートル下り程度の水位が生じたとしたら、同箇所が水当りの極めて強い所であることから波の激突によつて水面は一時的には天端より三、四〇センチメートル下り程度まで達することもあろう)、右破堤箇所以外の区間とは危険度に大きな隔りがあると考えるべきであつたものである。

(ロ) また、七・一七洪水後、県土木部は、治水ダムの設置と災害復旧助成事業等による河道改修等を計画し、これらにより、基本高水流量毎秒三、〇〇〇立方メートル(姫田川合流前本川で毎秒一、七四〇立方メートル)に安全に対処しようとしたものである。しかし、災害復旧助成事業による河道掘削が完了して下高関地区付近河道が完成河道になるまでには五、六年位要することが見込まれ、また治水ダムが完成するまでには七年ないし場合によつては一〇年近くの期間を必要とすることが見込まれていたものであり、これらが完成するまでの間は(河道掘削完了の前後で危険度に若干の変化があつたにしろ)、前述のような下高関地区破堤箇所の七・一七洪水程度の洪水に対する高度の危険性は解消きれないと考えるべきであつたものである。

(ハ) ところで、七・一七洪水をもたらした七・一七豪雨は前述のとおり従来の降雨記録によれば、かなり頻度の小さい洪水であつた。しかし、前述のとおり、従来の降雨記録から算出されたその低い超過確率は額面通りには受取ることができない点もあるうえ、仮にこれによつても五ないし一〇年間という連続期間をとつた場合には七・一七洪水程度の洪水が再来する確率は相当程度存することとなるといわなければならない。のみならず、我々は、一度経験した事象の再来については単なる確率によつては割り切れない強い危惧感を抱くものであつて、河床掘削やダムの完成に前述のような相当の長期間を要することが見込まれていたうえ、その最終段階にならなければ本来の改修事業による安全度の飛躍的向上は望めなかつた本件においては、この間の安全対策につきさほど配慮する必要はなかつたとみることはできず、むしろ、これについて十分検討考慮を加えるべき要請が強かつたといわなければならない。

(二) 以上のような事情に照らせば、七・一七洪水後の加治川の本来の改修事業をできるだけ早急に進捗させることが加治川中流部(中流部最上流付近及び岡田地区付近より下流を除く)における過渡的安全対策として必要にして十分なものであつたとは直ちにいうことはできないと考えられ、かつ、これらの事情にさらに、次のような事情、すなわち、

(i) 下高関地区は過去にも洗掘破堤しているが、その後県土木部は、破堤箇所の洗掘防止対策としてその箇所の表法に天端ないしは天端付近まで野面石練積みを行い表法を堅固に固めていること、右洗掘破堤をもたらした洪水は、七・一七洪水と比較し、水位流量ともこれを上回つていなかつたこと、七・一七洪水時右石練積みは洗掘に対し大きな防止効果があつたこと、これらによれば、治水ダムの設置等をも含む大がかりな河川改修によらず、一応現在の河道を前提として下高関地区堤防の七・一七洪水程度の洪水に対する一応の安全策を講ずるとすれば、過去の経験にならつて最大の水衝部である七・一七洪水時破堤箇所に築造する新堤防表法に天端より一・二メートル下り以下だけにコンクリートブロツクを張るのでなく、天端ないしは天端付近までコンクリートブロツクを張るべきであること、

(ii) 新堤防表法に天端ないしは天端付近までコンクリートブロツク張りを施せば(なお、水衝部の変動等に対する安全を考慮すれば、右コンクリートブロツク張りは新堤防の上下流まで若干延長すべきであろう)、下高関地区の七・一七洪水程度の洪水に対する安全度は大きく向上し、一応この程度の洪水に対する安全が確保されること、そしてこのことは、前述の中流部最上流付近及び岡田地区付近より下流を除く中流部右岸全体としても七・一七洪水程度の洪水に対する安全度が大きく改善されこれに対する一応の安全性が確保されることをも意味すること、

(iii) 右区間右岸の後背地は、姫田川合流点より下流両岸の後背地とは重要性において格段の差があるけれども、なお相当重要度が高いといつて妨げないこと、すなわち、右区間の背後には姫田川との間に相当広い耕地が広がり、集落も散在していること、また右区間右岸が氾濫したときには氾濫水は右後背地に広がりながら波及し、その結果、後背地の受ける被害も相当高額に上ることになること、

などを併せ考慮すると、七・一七洪水後の加治川の本来の改修事業の進捗をさほど阻害せず、かつ費用的にもさほど高くならないとの事情が備わる限り、本件において過渡的安全対策として破堤箇所に築造する新堤防に天端もしくは天端付近までコンクリートブロツク張りの高水護岸を施すべきであつたと認めるべきであると考えられる。

(ホ) そこで、さらにこの点につき検討する。

七・一七洪水時の下高関地区砂堤箇所は〈41〉)加助六の一L=三二〇メートルの施行区間のうち下流六〇メートルと上流四〇メートルを除いた部分である。そして、右破堤箇所とその上流四〇メートルの区間は八・二八洪水時までに本来の改修工事として天端より一・二メートル下り以下の表法にコンクリートブロツク張りの高水護岸を施していたことは前にのべたとおりである。

ところで、右に加えてさらに右破堤箇所表法に天端ないしは天端付近までコンクリートブロツク張りを施すこととした場合に必要となる追加費用は、〈証拠省略〉によれば、一五〇万円前後であると認められる。そして仮に右コンクリートブロツク張りを若干破堤箇所より上下流に延長することにしたとしても総追加費用は数百万円を超えることはないと考えられる。

七・一七洪水後の加治川復旧助成事業の総経費は約三〇億円であり、また治水ダム事業等を含む加治川の全体改修計画にかける費用は、百億円を優に突破する。このような百億円規模の大工事において、過渡的安全対策のため数百万円程度の費用をかけたとしても総事業費との関係で決してバランスを失しないと考えられる。また後背地の重要性、前述のような措置を講ずることによつて得られる安全効果、さらに右のような措置は取壊しの予定される仮堤防などとは異なり耐久的な施設であつて、将来の計画規模を超える異常出水に対しても効用を発揮しうることなどを考慮すると、相当投資効果の高い出費であり、経済性の低い出費であつたとは考えられない。

このような点に照らすと、前述のような措置を講ずることが、その支出を期待できないような高すぎる費用を伴うものであつたとは到底認めることができない。

また、前述のような措置の内容に照らすと、このような措置を講ずることにしても、そのために多くの人手資材機材などを必要とし、その結果、本来の改修事業の進捗に実質的に妨げとなるというような事情の存しなかつたことは明らかである。

なお、前述のような措置を講ずることとした場合、その工事量は翌年の出水期までに右措置を十分完成させうる程度のものであつたこと明白である。

また、すでにのべたところによれば、右措置を講じておけば八・二八洪水での下高関地区堤防が破堤することがなかつたであろうことは明らかに推認できる。

(ヘ) 以上のべてきたところによれば、県土木部は、七・一七洪水後、下高関地区破堤箇所に築造する新堤防につきその表法に原告ら主張のように天端までコンクリートブロツクを張るか少なくとも天端付近までコンクリートブロツクを張るべきであつたものであり、県土木部が右コンクリートブロツク張りを天端より一・二メートル下り以下に止めたことは違法であつたと認めることができるから、この点に関する原告らの主張は採用できる。

第一〇損害について

一  本件三地区の破堤による氾濫水のうち、第九において述べたところから明らかなように違法な加害力としてとらえることのできるのは、下高関地区破堤による氾濫水のみである。

そこで以下損害についての判断は、下高関地区の氾濫水により発生したと主張されている原告石井平治、同今井幹雄、同菅兵治のそれについてのみ行えば足りる。

二  右三原告の弁護士費用を除く損害について

(一)  右原告らの損害の主張について

本件は洪水による災害であるが、洪水災害は被災者の生活基盤そのものを破壊する被害の甚大性を特徴としている。

その被害の中には、財産的損害として金銭的評価の可能なものもあるが、それが不可能なものもある。また金銭的評価が一応可能であつてもそれが困難であるものあるいはそのような評価を行うことが不自然なものもある。さらに洪水による損害は多様多岐にわたつていてこれを枚挙することは不可能に近く、またこれら個々の損害の集積がこれらを総合した損害と同一であるとは必ずしもいえない。

このように洪水災害による損害発生の形態にはかなり特異な点の存することが注目される。

ところで、本件における右原告らの損害の主張をみると、右原告らの主張は右のような特異性に対応して通常の不法行為の場合とはかなり様相の異つたものとなつている。

すなわち、右原告らは、本件洪水(下高関地区氾濫水)による財産的損害のうち一、二のものについては独立の損害費目として主張しているが、残余の財産的損害については独立の損害費目として主張することはせず、これらをすべて慰籍料の斟酌事由として主張し(なお右原告らが列挙している財産的損害は単なる例示と解される)、慰籍料での斟酌を求めるに止まつている。

右原告らがその損害の主張についてかかる構成をとつたのは、本件洪水による損害を通常の不法行為の場合のように構成することの困難性、またこのように構成した場合の立証の困難性や審理の長期化を考慮したが故のことと思われる。

しかして、かかる構成による損害の主張が果して許容されるか否かが一つの問題である。

そこで、この点につき検討するに、一般に慰籍料は財産的損害の賠償金との関係で補完的役割を有しているといわれているが、その補完作用を及ぼすべき範囲については、種々の見解がありうる。

すなわち、財産的損害の種類等により補完作用を及ぼすべき範囲について何らかの限界を置く見解、このような限界を置かずに広く補完作用を認める見解等である。

ところで、当裁判所は、一般論としてあまりにも無原則的に広く補完作用を認めることは現行法制の建前の上からも必ずしも好ましいものとはいえないと考えている。

しかし、本件のような洪水災害の場合、その損害発生形態の特異性からして補完作用に何らかの限界を置くことは被害者に主張上あるいは立証上大きな困難を強いることとなること(換言すれば、何らかの限界を設ける場合右限界を画する基準は、被害者がこれにのつとつて主張を構成しても損害填補の上で通常不利益を被らないと考えられるものでなければならないが、かかる条件に適合する基準は見出しがたいこと)、理論的にみても洪水災害による損害は全体的に考察するといわば一個の生活侵害による損害として観念しうる余地もあり、この点を考慮すると、洪水災害による損害を財産的損害による賠償金で填補するか慰籍料で填補するかは単なる理屈付けにすぎない面が存すること等に徴し、限定を付さず広く補完作用を認めてよいと考える。

以上によれば、本件において、前述のような構成により前記原告らがその損害を主張することを不適法とする理由はないというべきであり、従つて後述の慰籍料の認定にあたつては、独立費目として主張されていない全財産的損害をその他一切の事情とともに斟酌し、これを認定することとする。

(二)  因果関係についての被告らの主張について

被告らは右原告らの主張する損害のうち、原告菅兵治主張の(2)の損害(水田埋没による収穫皆無の損害)につき、損害発生についての他水の寄与を主張し、右損害の発生と下高関地区破堤との間の因果関係を争つている(右原告ら主張のその余の損害については、その発生と下高関地区破堤との間の因果関係の存在自体は当事者間に争いがない)。

そこで、ここでは、右主張に関連して、先行の違法でない外力によつて生じた損害と後行の違法な外力によつて生じた損害が競合している場合の因果関係論につき若干触れておくこととする。

右の場合は、競合の態様によりさらに二つに分けられる。すなわち、その一は、各外力ごとにこれが原因となつて発生した損害部分を具体的に特定できる場合であり、その二は双方の外力により生じた損害が混然となりかかる特定ができない場合である。

右のうち一については、因果関係の判定に関し、特に問題となる点はない。

しかし、その二については、因果関係の存在範囲についての証明がないとして直ちに損害の請求を棄却してよいかという問題がある。

ところで、不法行為被害者は不法行為と損害との間の、事実の上での原因結果関係(事実的因果関係)の存在を証明しなければならないのは当然である。従つて、不法行為(違法な外力)による損害と自然力(違法でない外力)による損害とが競合している場合、不法行為を原因とする損害の範囲を証拠により明らかにできなければ前述の事実的因果関係を証明したことにならないから、立証責任の負担により被害者の損害の請求が棄却されることとなるのは明らかである。

しかし、右の不法行為を原因とする損害の範囲は、損害各部分の発生原因による特定という方法によつて明らかにしうることは勿論であるが、これに限られるものではない。

右のような損害各部分の発生原因による特定ができなくとも、全損害のうち各外力が何割の損害を発生せしめているかを知ることのできる場合があり、この場合このような割合によつて右損害の範囲を明らかにすることができるからである。

従つて、前述のその二の場合、損害が混然と競合しているからといつて直ちに請求を排斥すべきでなく、なお証拠を検討し、違法な外力を原因とする損害の範囲を右にのべたとおり割合的に明らかにすることができるならば加害者にその割合による損害填補の責任を認めるべきである。

(三)  以上の考察を前提とし、以下、〈証拠省略〉並びに前記第七、第八・一認定の事実により、(四)において前記三原告の被災の概況を認定し、(五)において三原告の損害を認定する。なお〈証拠省略〉中この認定に反する部分は措信しない。

(四)  三原告の八・二八洪水時における被災の概況

(1) 原告石井平治について

同原告方は七人家族で、下高関地区破堤箇所から三〇〇メートル位の位置に居宅、その付近に田畑を有している。同原告方は、七・一七洪水時も氾濫水の直撃を受け居宅が床上一一五センチメートル一四四時間の浸水を受け、水田、タバコ畑もほとんど収穫皆無となり、タバコ乾燥場の浸水、農機具の冠水、家財道具の流失等の被害を受けた。

その後同原告方では居宅を新築し昭和四二年四月完成した。ところが、八・二八洪水時再び下高関地区堤防が破堤したため、その氾濫水の直撃により、新築間もない居宅が床上九〇センチメートル七二時間の浸水を受け、収穫を間近に控えた水田、タバコ畑が流失埋没し、その他畜舎、タバコ乾燥場の浸水、農機具(脱穀機、籾摺機)の冠水、飯米、味噌、木炭、タンス、衣料等の流失等の被害を受けた。同原告や同原告の家族らは、浸水が引くまでの丸三日間物置き用二階で過したが、その後も長期間にわたりそこでの生活を余儀なくされたものと思われる。

浸水が引いた後の居宅の状態は、床上あるいは床下に泥や他家の汚物が入り込み、その掻い出しや洗流しに数日間を要する程であつた。

(2) 原告今井幹雄について

同原告方は六人家族で、下高関地区破堤箇所から一、三〇〇メートルの位置に居宅及び田畑を有している。

同原告方は七・一七洪水時も、下高関地区氾濫水により、居宅が床上一〇センチメートル一〇時間の浸水を受け、水田のうち半分くらいが流出埋没して米の収量が減少し、そのほか作業場の浸水、農機具の冠水、冷蔵庫、タンス等家財道具の冠水等の被害を受けた。

その後同原告方では土台を四〇センチメートル嵩上げして居宅を新築し、昭和四二年四月完成した。

ところが、ようやく生活が落ち着きを取り戻したときに、八・二八洪水が起り、再び下高関地区破堤箇所からの氾濫水により、新築間もない居宅が床上六センチメートル四時間の浸水を受けた外、水田の半分位が流失埋没して米の減収を見、その他作業場、納屋、便所の浸水、自動車の冠水等の被害を受けた。

なお、同原告方では、農機具類は他家に預けていたため下高関地区氾濫水によつては被害は生じていない。また、家財道具等は氾濫水の来る前にあらかじめ高く積み上げておいたため被害を免れた。

(3) 原告菅兵治について

同原告方は五人家族で、下高関地区破堤箇所より一・七キロメートルくらい離れた姫田川左岸の西姫田部落内に居宅を有しており、また同人方の水田の殆んど全部は居宅より一キロメートル弱離れた姫田川と坂井川に囲まれた三角地帯の合流点近く(新発田市大字下中江字家の上及び大字早道場字向才加治地内)にある。

同原告方では、七・一七洪水時も下高関地区からの氾濫水により居宅床上浸水、作業場の浸水、家財道具の冠水等の被害を受け、また右氾濫水等により米の収穫七〇パーセント減収等の被害を受けた。

ところが、八・二八洪水時再び下高関地区が破堤したためその氾濫水により居宅が床上七〇センチメートルないし九〇センチメートルの浸水を受け、その一部の改築を余儀なくされ、また作業場も土台上七五センチメートルの浸水を受け、さらに家財道具、飯米、農機具(一〇点)等が冠水し、鶏約一七五羽が流出する等の被害を受けた。また同原告方水田については、下高関地区氾濫水および他水により冠水埋没し、米のかなりの減収をみた。同原告方水田の被災の状況経過は次のとおりである。

同原告方の水田の殆んど全部は、前述のとおり、姫田川と坂井川に囲まれた三角地帯の合流点近くにあるが、右三角地帯の地形は、地盤高は最深河床より上約三メートル程度とかなり低く、かつ上流に向つて六五〇分の一(水平距離六五〇メートルで一メートルの高低差)から七〇分の一とかなり急勾配となつている。このため、三角地帯及び背後地の降雨などの内水は、すべてこの合流点に流れ集まり、平水時においては、同合流点の霞堤から緋水されるが、洪水時には姫田川、坂井川の水位上昇と相まつて右合流点付近の低地帯に湛水する(なお、姫田川右岸や坂井川左岸から溢水したり、三光川が氾濫したような場合には、この水も右合流点付近に流れ集まり湛水を助長する)。

八・二八洪水時においては、八月二八日午後まもなくの豪雨と第一回の増水により、第一回増水のピーク時頃(午後三、四時ころ)には、三角地帯及び背後地の内水、姫田川右岸及び坂井川左岸から溢れた水が右合流点付近に集中し、すでに右合流点付近低地帯の田畑は冠水していた。

その後、一たんは坂井川、姫田川が減水したため冠水の範囲も減じたが、同日夜遅くより再び雨が強まりまた姫田川、坂井川が急速に増水し、三光川も氾濫を始めたため、内水、姫田川、坂井川からの溢水、三光川からの氾濫水により、右低地帯の田畑は、坂井川麓地区破堤時(二九日午前一時半ころ)ころをピークとして再び大きく冠水した。

一方同日午前四時ころ下高関堤防を堰切つて一気に流れ出した大量の水は田畑等を流し、大量の土砂を含ませながら、加治川と姫田川に囲まれた三角地帯を低地に沿つて流下し、そのうち姫田川左岸側に集つた水のかなりの部分が姫田川を越えて(姫田川堤防は地盤高よりさほど高くない)、前記姫田川と坂井川の合流点付近低地帯に流入した。このため、右低地帯の田畑はまたも大きく冠水した。このような状態は数時間続いたものと思われる。

以上によれば、右低地帯にある同原告方水田は、下高関地区氾濫水が流れ込んでくる半日以上前から二度にわたる大きな冠水に見舞われてすでにかなりの損害(稲は冠水、倒伏によりある程度品位収量の低下を免れない状態が生じていたと思われるし、また土砂による埋没のため取入れが不能となつたところも一部にはあつたと推定される)が生じていたところさらに下高関地区からの大量の土砂を含む氾濫水が流れ込んできてこれによる冠水も加わつたため、右損害が助長されたものと考えられる。

(五)  損害

(1) 原告石井平治について

(イ) 米の減収

昭和四二年度の三等米の政府買入価格は一俵(六〇キログラム)当り七、八〇八円であつた。

同原告の昭和四二年度の水田総作付面積は一二〇アールであつた。同水田の一〇アール当りの平年収穫高は約八俵であつたから平年総収穫高は約九六俵である。

しかるに、八・二八洪水時下高関地区破堤箇所からの氾濫水により右水田が大部分流失埋没し、政府米として供出できない低品位め米が約二八俵収穫されたのみであつた。

右によれば、米の減収による損害額は、五三万〇、九四四円を下らない。

(ロ) タバコの減収

同原告は、二三アールの畑に葉タバコを栽培していたものであるが、八・二八洪水時下高関地区破堤箇所よりの氾濫水により、右二三アールのタバコ畑が流失し、若干収穫して乾燥中であつた葉も乾燥場の浸水で政府に売り渡しができないものとなり、収穫は皆無であつた。タバコ栽培による収入は一〇アール当り七万円前後であつたから、右の損害額は一二万円を下らない。

(ハ) 慰籍料

氾濫水の直撃を受け孤立した恐怖の一夜を過したこと、新築の木造セメント瓦葺平屋建(物置用二階付き)居宅一棟八九・三六平方メートルの七二時間にわたる床上九〇センチメートルの浸水による相当程度の機能喪失(なお、右建物新築費用は材料費だけで一四〇万円かかつた)、農機具(脱穀機(当時の新品購入価格五、六万円)、籾摺機)の冠水による完全な機能喪失、飯米三俵、味噌三〇〇キログラム、木炭六〇キログラム、タンス、衣料等の流失、居宅、畜舎、タバコ乾燥場その他屋敷内の泥の掻い出しあるいは洗い流し作業の従事、田畑の復旧作業の従事(長期間にわたる物置用二階での仮住い等日常的に甚大な不便を被つたこと、その他種々の財産的損害を被り、また日常的に種々の苦労を強いられたことなど一切の事情を総合すると、同原告の被つた精神的苦痛に対する慰籍料は一七〇万円を下らない。

以上を合計すると、損害額は二三五万〇、九四四円となる。

(2) 原告今井幹堆について

(イ) 米の減収

同原告の水田総作付面積は一四七アールである。

右水田の平年収穫高は一〇アール当り約八俵半であるから、平年総収穫高は約一二五俵である。

しかるに、八・二八洪水時下高関地区破堤箇所からの氾濫水により右水田の約半分が流失埋没したため、約四五俵位の収穫にとどまり、差引き八〇俵位の減収となつた。

右米の減収による損害額は、六〇万円を下らない。

(ロ) 慰籍料

建築費二一五万円で新築した木造セメント瓦葺亜鉛メツキ鋼板交葺平屋建居宅一棟二五・二九平方メートルの床上六センチメートル四時間の浸水による機能喪失、居宅、作業場、納屋、便所その他屋敷内の泥の清掃作業の従事、田の復旧作業の従事、冠水した自動車の修理費を負担したこと、その他種々の財産的損害を被り、また日常的に種々の不便、苦労を長期間にわたり強いられたことなどの一切の事情を総合すると、同原告の蒙つた精神的苦痛に対する慰籍料は、七〇万円を下らない。

以上を合計すると、損害額は一三〇万円となる。

(3) 原告菅兵治について

(イ) 居宅修理費

同原告方の木造草葺平屋建居宅一一二・三九平方メートル一棟は、八・二八洪水時下高関地区破堤簡所よりの氾濫水により床上七〇ないし九〇センチメートルの浸水を受け、下屋部分(九坪)の改築を余儀なくされた。右改築に要した費用は三二万八、〇〇〇円である。

(ロ) 米の減収

同原告の水田総作付面積は一五〇アールであり、その殆んど全部が姫田川、坂井川に囲まれた三角地の合流点付近低地帯にある。

同原告方水田の一〇アール当り平年収穫高は約八俵であり、平年総収穫高約一二〇俵である。

しかし、昭和四二年に収穫できたのは、政府に供出した三五俵、政府に供出できず自家用米とした約一五俵(価値としては一俵当り二、〇〇〇円から五、〇〇〇円くらいのものと思われる)のみであり、平年作とくらべると、同年の収穫は金額にして五四万六、五六〇円を下らない減収であつた。

ところで、右減収の原因は八・二八洪水時における他水による冠水と下高関地区破堤箇所からの氾濫水による冠水とであるが、これらによる各損害が競合混在して右の損害を形成しているものである。

そこで、右の全損害のうち下高関地区氾濫水を原因とする損害の割合について検討するに、同原告方の前記低地帯にある水田はピークごとに分ければ三回の冠水があり、第一、第二の冠水は他水によるものであり第三の冠水が下高関地区氾濫水によるものであるところ、第三の冠水は時間的には第一、第二の冠水を合わせたものよりかなり短かかつたけれどもこれをもたらした下高関地区氾濫水は大量の土砂を含む濁流であつたから、第三の冠水の際右水田に運び込まれ沈澱した土砂量は第一ないし第三の冠水を通じて沈澱した全土砂量の三分の一ないし二分の一程度に達したと考えられること、一方、他水によつて生じた第一、第二の冠水は、その冠水時間を合わせると、半日という長時間にわたつており、またこの間他水によつて運び込まれ沈澱した土砂量は全体の二分の一ないし三分の二程度であつたと考えられるから、この冠水だけによつても前記低地帯の同原告方水田のうち、取入不能の程度に土砂の堆積した部分が数割程度は生じ(なお第一ないし第三の冠水で取入れ不能の程度に埋没した水田は全体の六割程度と考えられる)、またこの程度に土砂の堆積しなかつた部分でも稲の冠水倒伏により腐敗や品位低下を免れない状態がかなりの程度生じていたと推定されることなどを総合すると、他水による第一、第二の冠水を原因とする損害は第一ないし第三の冠水による全損害のうち七割程度を占め、その余の三割程度が下高関地区破堤箇所からの氾濫水により生じた第三の冠水を原因とする損害であるとするのが相当である。

以上によれば、下高関地区氾濫水を原因とする同原告方水田の米の減収による損害は一五万円を下らない。

(ハ) 慰籍料

居宅の床上七〇ないし九〇センチメートル浸水による本屋部分の機能喪失、飯米二俵の冠水、家財道具、農機具(一〇点)の冠水による機能喪失、鶏約一七五羽(一羽数百円)の流出、居宅その他屋敷内に沈澱した泥の清掃作業の従事、水田の復旧作業の従事、その他下高関地区からの氾濫水に襲われたため、種々の財産的損害を受けたこと、日常的に種々の不便苦労を長期間にわたり強いられたことなど一切の事情を総合すると、同原告の蒙つた精神的苦痛に対する慰籍料は六〇万円を下らない。

以上を合計すると、損害額は、一〇七万八、〇〇〇円となる。

(六)  被告らの米の減収損害に対する一部填補の主張について

原告石井平治、同今井幹雄、同菅兵治が、下高関地区破堤箇所からの氾濫水により被つた米の減収損害(原告菅兵治については他水による米の減収損害も含まれる)に対し、(昭和四五年法律第一三号による改正前の)農業災害補償法(以下単に補償法という)に基づく共済金(原告石井平治一八万八、五二〇円、原告今井幹雄一七万五、二六〇円、原告菅兵治九万一、一四〇円)が支払われていることは当事者間に争いがない。

ところで、被告らは、右共済金の支払により右損害の一部が填補されたからこの分は賠償額から控除さるべき旨主張し、右原告らは、右共済金はすでに払込んだ共済掛金の対価たる性質を有するものであつて、加害行為によつて得た利益でないから損益相殺の理論を類推して右共済金を賠償額から控除することはできない旨主張している。

そこで、判断するに、補償法による農業共済組合の支払う共済金は、加入組合員がすでに払込んだ共済掛金の対価たる性質を有し、加害行為によつて被害者が得た利益ではないから、損益相殺の理論によつては、共済金を賠償額から控除することを正当化することはできないのは明らかである。また、損益相殺の問題とは別の問題であるが、本件の共済金は同法にいう農作物共済の共済金であるところ、この共済金の支払について商法六六二条(保険者代位の規定)の準用ないし類推適用が許されるかどうかであるが(もし、準用ないし類推適用があるとすれば、共済事故が第三者の不法行為によるものである場合、右共済事故に対し組合が組合員に共済金を支払つたときには、その限度で組合員の加害者に対する賠償請求権が組合に移転し、従つて、組合員が加害者に対して請求しうる損害額がその分減少することとなる)、この点については、商法六六二条の規定はもともと政策的な規定であつて、明文の準用規定のない限り、原則として準用ないし類推適用はなされるべきではないところ、補償法上家畜共済や任意共済についてはそれぞれ明文(同法一二〇条、一二〇条の三)をもつて商法六六二条の規定を準用しているのに、農作物共済についてはこれと殊更区別してあえて明文の準用規定を置いていないことに徴すると、補償法は、農作物共済の共済金の支払に商法六六二条の準用はもとより類推適用も予想していないと解するのが相当である。

なお、補償法一二条は共済掛金の国庫負担割合による国庫負担一を定めているが、その国庫負担割合が一〇〇パーセントに近いならばともかく、そうでない以上、右共済金の支払をもつて、一部弁済的なものとみなす余地もない。

以上いずれの点からみても前記原告らの受取つた共済金を米の減収損害に対する賠償金から差引くべき理由は見出しがたいから、被告らの前記主張は失当である。

三  右三原告の弁護士費用について

〈証拠省略〉によれば、原告石井平治、同今井幹雄、同菅兵治は昭和四八年八月二八日、その訴訟代理人ら代表弁護士松井道夫と本件につき勝訴の際、請求認容額の一割の報酬(ただし、一万円未満切捨て)を支払う旨の報酬契約を締結したことが認められる。そして本件事案の内容、審理の経過等に照らすと、右原告らが弁護士に本件訴訟の提起遂行を委任したのはその権利擁護のためやむをえない措置であつたと認められ、かつ右原告らがこれに伴い負担した右内容の報酬支払債務は全部本件下高関地区破堤と相当因果関係の範囲内にある損害と認めることができる。

そこで、これを計算すると、

原告 石井平治につき 二三万円

同 今井幹雄につき  一三万円

同 菅兵治につき   一〇万円

となる。

四  損害の総計

各原告につき二、三で認定した損害を総計すると次のとおりとなる。

原告 石井平治につき 二五八万〇、九四四円

同 今井幹雄につき  一四三万円

同 菅兵治につき   一一七万八、〇〇〇円

第一一被告等の損害賠償義務

前叙のとおり、被告国は、本件加治川の管理主体であり、被告県は、加治川につき、河川法五九条等の規定により所定の管理費用を負担しているものであり、かつ、八・二八洪水時における加治川下高関地区破堤は、加治川管理に瑕疵があつたため生じたものであるから、被告等は国家賠償法二条一項、三条一項により右破堤によつて生じた第一〇・四認定の損害を連帯して支払うべき義務のあること明らかである。

第一二結論

以上のべてきたところによれば、本件原告らのうち原告石井平治、同今井幹雄、同菅兵治の請求については、第一〇・四記載の各金員およびそれぞれに対する本件不法行為の後である昭和四二年八月三〇日以降支払ずみに至るまでの民法所定の年五分の割合による遅延損害金の連帯支払いを求める限度で理由があるから、この限度で認容しその余は失当として棄却すべきであり、またその余の原告らの請求については、いずれも理由なきものとして棄却すべきである。

よつて、訴訟費用の負担につき、民訴法八九条、九二条、九三条を適用し、仮執行の宣言につき同法一九六条を適用し、仮執行免脱の宣言は相当でないからこれを付さないこととして、主文のとおり判決する。

(裁判官 渡辺達夫 奥田孝 須田賢)

図2-11 施行計画図

(A)向中条地区 標準横断面図

(B)西名柄地区 標準横断面図

図2-16 改良計画図〈省略〉

図2-19 工事計画および出来高図〈省略〉

(A)向中条、西名柄両地区〈省略〉

(B)下高関地区〈省略〉

図2-20 下高関地区施行計画図

表1-1 昭和二七年より四一年までの加治川改修事業費〈省略〉

表1-3 新潟県における河川改修のうち加治川の事業費の順位表〈省略〉

別紙1-1 計画高水流量の算出

一 実績雨量及雨量超過確率

(1) 日雨量

地点

年・月・日

赤谷

(大八~昭三六)

新発田

(大二~昭三六)

実川

(昭七~昭三六)

順位

日雨量

順位

日雨量

順位

日雨量

昭 七・七

一七二・一

一四四・一

昭 九・七

一六八・〇

一〇九・六

大一一・七

一五四・〇

二一・〇

昭二七・六

一四六・〇

七二・三

一一六・五

昭一九・七

一三三・四

二一

七三・四

一八八・七

大 九・八

一二九・四

(2) 雨量超過確率

赤谷観測所(大八年~昭三四年まで四一年間の資料)

確率年

一/一〇

一/二〇

一/三〇

一/五〇

一/一〇〇

一/二〇〇

雨量

一三七・三

一五六・九

一六八・二

一八二・二

二〇一・二

二二〇・一

二 計算日雨量及び計画時間雨量の決定

(1) 計画日雨量は、流域内の赤谷観測所の最高値一七二mm/day(S七・七)に余裕をみて二〇〇mm/dayとした。

(2) 計画時間雨量は、降雨中の出水の時間(洪水到達時間)を現地聞込みとRziha公式よりの計算を比較して四・五hrとして物部公式より求め、二五・四mm/hrとした。

三 計画高水流量の決定

(1) 上記(2)の計画時間雨量から、ラシヨナル公式により、計画高水流量を求めた。

加治川上流(姫田川合流点上流)

Q=一、一六〇m3/S=一、二〇〇m3/S、

A=二〇五・四km2、f=〇・八

姫田川外坂井川支川(板山川、田貝川、三光川、石川、小出川、寺内川)

Q=五一二・〇m3/S、A=一〇三・六km2、f=〇・七

坂井川上流部

Q=一二一・七m3/S、A=二八・八km2、f=〇・六

姫田川残流域

Q=三三・五m3/S、A=一一・九km2、f=〇・四

以上の計、Q=一、八二七・二m3/Sに余裕をみて、Q=二、〇〇〇m3/Sとした。

(2) 姫田川(坂井川合流点下流)及び坂井川は、流出係数fを〇・七とし、ラシヨナル公式により、全流域によるものと、最も支配的な支川流域によるものを算出し、その最大の方をとつて、計画高水流量を以下のとおりとした。

姫田川(坂井川合流点上流) Q=九三五・七m3/S≒一、〇〇〇m3/S

姫田川(坂井川合流点上流) Q=四六七・三m3/S≒四七〇m3/S

坂井川(三光川合流点上流) Q=六六〇・〇m3/S≒七〇〇m3/S

坂井川(三光川合流点上流) Q=五五〇・〇m3/S≒六〇〇m3/S

三光川 Q=二三六・四m3/S≒二四〇m3/S

表1-6 河川使用者および取水量〈省略〉

表2-1 七・一七豪雨の加治川流域内各種降水量の観測値〈省略〉

表2-2 七・一七豪雨の三日連続雨量及び日雨量と既往最大値との比較〈省略〉

表2-4 新発田赤谷における日雨量の確率算定値〈省略〉

表2-5〈省略〉

表2-6 岡田測水所の過去の洪水記録〈省略〉

表2-7 近傍河川の各年最大水位表〈省略〉

別紙2-2 基本高水流量の算定

一 実績降雨

昭和四一年七月一六日から一七日にかけての降水量は次のとおりである。(図-一、図-二)

観測所7/17日雨量最大時間雨量

赤谷  225mm/day(R24・287mm)36mm/hr

二王子 263mm/day(R24・333mm)25mm/hr

(R24………最大24時間雨量)

二 計画日雨量および計画時間雨量の決定

降雨形式は赤谷の実績降雨を使用して計画日雨量、計画時間雨量を求めた。

計画日雨量  280mm/day

計画時間雨量  45mm/day

三 基本高水流量の決定

上記一の実績時間雨量から、流出係数を〇・九とし、ラシヨナル方式により、本川および各支川の流量を時間毎に求めて合成すると Q=2,420m3/secとなる。

基本高水流量は、2,240m3/secの波型をそのままスライドアツプし、図-三、図-四のとおり3,000m3/secとする。

なお、ダムカツト後の河道計画高水流量は2,290m3/sec≒2,400m3/secとする。

表3-1 八・二八豪雨の加治川流域内各種降水量観測値〈省略〉

表3-2 連続雨量および日雨量の既往最大値七・一七豪雨および八・二八豪雨の比較(気象台観測・雨量の単位ミリメートル)〈省略〉

表3-3〈省略〉

表3-4〈省略〉

表3-5 新発田及び赤谷における八・二八豪雨の日雨量の確率算定値〈省略〉

表3-6 新発田及び赤谷における七・一八豪雨の日雨量の確率算定値〈省略〉

表3-8 新発田各観測所における各種降水量の七・一七豪雨と八・二八豪雨の比較〈省略〉

裁判所作成に係る判決要旨

判決理由の骨子

一 向中条、西名柄両地区の仮堤防を旧堤防とほぼ同じ高さに築造したことは違法でなく、本件は水位上昇期半ばにこれを溢水して破堤したものであるから被告らに法律上の責任はない。

二 下高関地区の本堤防は溢水せず、堤防の表法(川側斜面)上部のコンクリートブロツク張りのなされていなかつた部分が洗掘されて破堤したが、ダムの設置を含む改修本工事完成に至るまでの過渡的安全をも考えれば、この部分にコンクリートブロツク張りをしなかつた点に河川管理の瑕疵がある。

判決理由の要旨

第一本件三地区の破堤の経過、原因、破堤時の水位

一 向中条地区仮堤防

八月二八日午後二時半ころ、水位は岡田測水所の警戒水位二・六メートルに達し、さらに増水して行つた。三時半ころから天端(堤防上)で一旦土のう積み作業が開始されたが、夕方から裏法尻(裏側斜面の下部)で雨による亀裂や崩落が発生し、それが大きくなつて行つたので(但し、崩落が河水の浸透によるかどうかは不明)、そこへ土のう積みやビニールシート張りをした。水位は天端まであと五〇センチメートル位まで達したのち、蛇籠が見える位まで下り、また上昇した。午後一一時ころ裏法で大きな崩落があり、破堤との誤報も流れた。二九日午前〇時半ころには満水状態となり、溢水が生じ、午前一時ころ破堤した。溢水破堤と認められる。

原告らが主張するように破堤時の水位が天端から一メートル下位にあつたとする証拠はない。天端から三、四〇センチメートルないしひざかぶ程度の余裕があつたとの証言等は、水位の上昇の経過と大きなくい違いがあり、また溢水目撃者の証言に照らすと採用できない。

水位に関する吉川鑑定、破堤の経過、原因に関する三木鑑定は、それだけで具体的事実を認定することはできないが、目撃証言等と矛盾せず、かえつてこれを学問的推定により裏付けているという限度では十分補強的証拠となり得る。

二 西名柄地区仮堤防

仮堤防のうち上流側約一二〇メートルが、当時仮堤防工事と別に進行していた新堤防工事のための資材の搬入路に使用するため、上部約五〇センチメートルが切り下げられていた。八月二八日夕方から天端でその復元作業が始められ、午後九時すぎ川側の土のう積み作業が、一〇時半ころ、その裏側への盛り土作業が終了した(切り下げ前とほぼ同じ高さになる)。そのほか必要な箇所に土のう積みをしたり、雨裂や土のうの間からの漏水防止のためビニールシートを張る作業も行われた。

水位は、対岸筋向いの向中条地区とほぼ同様の動きを示したが、二九日午前一時ころ満水近くになり、土のうの隙間や上から溢水が生じ、午前一時半ころ破堤した。溢水破堤と認められる。

原告らは仮堤防の天端切り下げの高さが約一・二メートルであつたと主張するが、切り下げ状況の写真に照らし採用できないし、復元作業の後でも切り下げ前より七、八〇センチメートル低かつたとの主張もこれまでの説明に照らし採用できない。また裏法に浸透破堤の機序が進んでいたとの主張も証拠上明らかでない。

三 下高関地区本堤防

八月二九日午前〇時ころ、水位は高水護岸のコンクリートブロツク張りの上端からブロツク三、四枚下がり位であつた。このころ高水護岸の下流端から下流側二〇メートルの在来堤防の表法面(川側斜面)に欠け込みが生じ、これに対して「木流し」の水防活動がつづけられた。午前三時すぎころ水位は高水護岸をかなりこえ、波が高いときには天端まで一〇数センチメートルないし二〇数センチメートルにまで達した。そのころ高水護岸の中間部で高水護岸の上が天端付近まで欠け込んでいることが発見され、これが急速に大きくなり、手の施しようがないうち午前四時ころ破堤した。洗掘破堤と認められる。

原告らは最初に破堤した箇所は、はじめ欠け込みの生じた高水護岸のない部分であると主張するが、破堤後の現場写真によると、その部分の天端は欠け込みはあるものの破堤後も残存しているから右主張は採用できない。

第二河川(堤防を含む)管理の瑕疵について

一 はじめに

原告らの主張は極めて多岐にわたつている。しかし例えば向中条地区につき、浸透破堤を前提として築堤材料(浜砂の使用)や堤防の断面、構造の瑕疵を主張するものは、浸透破堤という前提が認められないから採用できないし、その他前提を異にする主張、明らかに因果関係の認められない主張、具体性に欠ける主張などはいずれも採用することができない。

本件では後記の三つの主張が重要なので、これに関連した一般的問題を少しく検討したのち判断を加える。

二 河川管理の責任

道路については法律上殆んど絶対的な責任が認められるといわれるが、それは人工公物としてその開通自体が人為の所産であり、開通した以上はこれから生ずる災害を防止すべき立場が認められ、特に危険があるならば道路の供用を廃止したり、一時閉鎖して危険を根絶することもできるからである。これに対し河川は自然公物としてもともと危険のあるものを改修工事等によつて安全性を高めて行くもので、道路のように比較的容易に危険を回避する方法はなく、その改修には多大の経費、人員と長い年月を必要とする。このような重要な差異を考えると、国が河川災害から国民を保護すべき責務(河川法一条、災害対策基本法一条、三条参照)は、通常は国民全体に対する政治的責務であつて、個々の国民に対する法律上の義務とはいえない。しかし国が政治的責務に著しく違反し(作為、不作為)、健全な社会通念に照らして賠償責任を負わせることが正義、公平に合致して相当と認められる場合にはこの責務は法律上の責任に転化すると解すべきである。

三 国家賠償法二条の適用方法

同法二条の道路、河川等の「設置又は管理の瑕疵」とは、管理又は設置という営為が違法であること、換言すれば違法要素としての安全確保義務違反たる作為、不作為をいうと解される。道路については通常物的な瑕疵があれば設置管理の瑕疵が推定され、これに対する違法性阻却事由がなければ責任を論定することができるが、河川については、設計上の外力の範囲内で災害が発生した場合、例えば完成した堤防が計画高水位、計面高水流量以下の水位、水量で破堤したような場合には同じような方法をとり得ても、これをこえる外力により災害が発生した場合、例えば計画高水位、計画高水流量をこえる水位、水量で破堤した場合、又は改修計画実施途中ないし未実施の段階で現に有する抵抗力を上回る水位、水量で破堤したような場合には、破堤が安全確保義務の違反を推測させないからこのような方法は適当でなく、後者の場合には具体的な作為、不作為自体及びこれをとりまくすべての客観的条件を総合して、はじめから安全確保義務とその違背の有無を論じて責任を論定する方法をとるべきである。

四 過渡的安全性

河川改修事業を計画実施する場合、通常はその事業をできる丈速やかに進捗させるべきであるとともにこれで足り、そのほかに計画完成までの期間のため特別の措置をとる法律上の義務までは認められない。しかし大規模な河川改修には長い年月を要するところ、その計画完成までの期間内は災害に対して計画通りの抵抗力が生ぜず、危険に対する空白期間ともいえるから、特別の必要性が認められ、かつ改修事業とも均衡を失しない限局された範囲内においては、事業完成に至るまでの危険に対する過渡的安全対策を法律上も考慮すべきである。

五 向中条、西名柄両地区の溢水破堤と被告らの責任

原告らは、両地区の仮堤防をもつと高く築造しておれば溢水しなかつたであろうし、それを別にしても仮堤防がもつと強固であつて裏法の崩落や天端切り下げ間題もなく、十分な水防活動を保証すれば破堤は免れ得たと主張する。

両地区の仮堤防は、七・一七洪水後の抜本的な改修工事の一環として両地区河道をシヨートカツトする工事完成までの約二年間の出水に対処するために設けられた応急的、過渡的な仮施設であり、その堤高は流失した旧堤防とほぼ同じ高さであつた。仮堤防がこのような仮施設であること、仮堤防部分丈を高くしても溢水防止のためにはあまり意味がないこと、姫田川合流点下流で、両地区の旧堤防の高さだけが顕著に他の部分より低かつたとは認められないこと、七・一七洪水時の異常降雨の発生頻度はかなり小さいことなどからすれば、両地区堤防の高さを旧堤防とほぼ同じにしたことは違法でない。

また八・二八水害で両地区が破堤したのは深夜でしかも水位の急上昇期半ばであつたから(吉川鑑定は、午前二時ころには天端から一・〇五メートルに達したであろうと推定している)、原告らのいうように堤体に問題がなかつた場合の水防活動を考慮しても早晩破堤することは免れず、損害発生との間に因果関係が認められない。

六 昭和二七年の加治川全体改修計画にもとづく改修工事の一部未実施について(向中条、西名柄両地区)

新潟県知事=県土木部(国の機関委任事務、加治川の管理については他の箇所も同じ)は、昭和二七年に基準点加治大橋の計画高水流量を毎秒二〇〇〇立方メートルとする全体改修計画を樹立したが、原告らはこの計画が完成していれば両地区は七・一七水害でもまた八・二八水害でも破堤には至らなかつたと主張する。

しかし右計画が完成していれば八・二八水害で両地区が破堤しなかつたといえるかについては疑問があるうえ、昭和三〇年代後半以降七・一七水害までの加治川の改修事業費合計約三億六八〇〇万円は県内の他の中小河川のそれと比較してもほぼ中位にあること、七・一七水害までの間に改修を実施した姫田川合流点より上流の区間は小氾濫を繰り返していた危険区間であつたのに対し、抜本的改修の着手に至らなかつたその下流区間は分水路工事等による既改修区間として数十年間大きな災害がなかつたこと、加治川堤防が日本有数の桜の名所として桜を伐るような計画には強い反対があつたこと、改修区間内の多数の農業用取水施設、多数の水利権との調整が困難を極めていたことを考慮すると、二七年全体改修計画を七・一七洪水時までに両地区まで完成させなかつたことは違法とまではいえない。

七 下高関地区新堤防の表法に天端ないし天端付近までコンクリートブロツクを張らなかつたことについて

七・一七水害後下高関地区の破堤筒所に築造された改良復旧工事としての本堤防の表法には、計画高水位である天端から一・二メートル下がりから下側にはコンクリートブロツク張りの高水護岸がなされたが、その上部天端までは被覆土に張芝がなされたままであつた。原告らはコンクリートブロツクを天端まで張らなかつたのは違法であると主張する。

県土木部は七・一七水害時の姫田川合流点上流の最大流量を毎秒一四〇〇立方メートル、このときの下高関地区の水位を天端から七、八〇センチメートル下がりと考えた。そして七・一七水害後の災害復旧助成事業は昭和四三年に概成、同四五年に完成する予定であつたが、その計画高水流量毎秒一七四〇立方メートルのうち、六〇〇立方メートルは加治川治水ダムと内の倉ダムでダムカツトされる予定のところ、両ダムの完成予定は昭和四七年であつた。

ところで下高関地区の破堤箇所は大湾曲部の外延部に位置し、加治川の中でも有数の水衝部であつてその上流及び下流部と比較しても洗掘に対する危険度が著しく高い地点である。昭和七年と九年に、七・一七水害の破堤箇所のすぐ上流の地点が、七・一七水害時の流量を相当下回る流量でありながらいずれも洗掘により破堤している。そこでその後その箇所一帯に天端ないしその付近まで野面石練積みをして洗掘に対処してきた。このように洗掘に対して極めて危険な下高関地区にあつて、ダムの設置を含む河川改修計画の完成までの五年から(計画完成の遅れる場合も考えれば)一〇年近い長い期間内は(この期間の巾を考えれば七・一七豪雨程度の豪雨の再来する確率もかなり増える)、災害に対し計画通りの抵抗力が生ぜず危険に対する空白期間ともいえる一方、七・一七洪水を経験した地元民の洪水再来に対する危惧感を考え併せ、かつ後背地が相当広くその重要性も無視できないことを考慮すると、改修計画完成までの期間の危険に対処するための過渡的安全対策として、昭和七年、九年の水害後の野面石練積みの経験に学び、新堤防の天端または天端付近までコンクリートブロツク張りをすることを考慮すべきことが法律上も要請される特別の事情があると認められる。これにより破堤箇所付近ばかりでなく相当広い後背地の安全性が格段に向上し、八・二八水害においても破堤に至らなかつたと推認できる。この工事は工事内容においても、またこれに要する経費、人員、期間(翌年までには優に完成させ得た)においても改修本工事と均衡を失するものとも考えられない。

これらの事情を総合すれば、七・一七水害後下高関地区新堤防の表法天端ないし天端付近までコンクリートブロツクを張らなかつた不作為は違法であり、被告国は加治川の管理に瑕疵があつたものとして国家賠償法二条により、被告県は費用の負担者として同法三条により、それぞれ連帯して関係原告に対し下高関破堤により蒙つた損害を賠償すべき義務がある。

第三損害について(下高関関係)

一 原告石井平治関係。米の減収分五三万〇九四四円、タバコの減収分一二万円、慰籍料(洪水被害が生活基盤そのものを破壊するという性質にかんがみ、独立費目とされていない財産的損害も慰籍料額算定にあたり勘酌する)一七〇万円、弁護士費用二三万円、合計二五八万〇九四四円を認容する。

原告今井幹雄関係。米の減収分六〇万円、慰籍料七〇万円、弁護士費用一三万円、合計一四三万円を認容する。

原告菅兵治関係。居宅修理費三二万八〇〇〇円、米の減収分一五万円、慰籍料六〇万円、弁護士費用一〇万円、合計一一七万八〇〇〇円を認容する。なお、同原告方の水田は殆んどが姫田川、坂井川に囲まれた三角地にあり、他の河川の溢水等により冠水した後下高関地区の破堤による氾濫水によつて冠水した。これら冠水による損害のうち三割程度を本件と因果関係のある損害と認める。

二 右原告らが受けた農業災害補償法に基づく共済金は、加入組合員の払込んだ共済掛金の対価たる性質を有し、加害行為によつて得た利益ではないから、損益相殺はしない。商法六六二条の準用ないし類推適用も相当でない。

第四結論

原告石井平治、同今井幹雄、同菅兵治の請求は右の金銭とその損害金請求の限度で理由があるが、その余は理由がない。

その余の原告らの請求はいずれも理由がない。

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